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過去の過ちからは逃れられないの?(心の足跡)新刊「静かなる償い」が新着ランキング7位!

カタルシス

新刊ミニ書籍「静かなる償い」が、何と! Amazonの「社会病理 の 新着ランキング」で7位に掲載されました!

新刊「静かなる償い」が新着ランキング7位!

温故知新

僕が何故、このようなミニ書籍を出版したか。理由は沢山あるけどその1つに「温故知新(おんこちしん)」があります。(ふる)きを(たず)ねてしきをという意味で、過去のことから新しい知識などを得ることを言います。これは特に「自分の過去」に対して重要です。雑で独りよがりな人ほど、自分の過去を蔑ろにします。いいですか、以前もお伝えしたように(幸せになりたければ過去を再構成せよ!の中でもお伝えしたように)、自分の過去はその時のレベルで意味づけた過去です。つまり50歳の人が抱えている過去情報は古いものです。20歳の時に意味づけた心の情報は、更新しない限り50歳になっても20歳の過去情報を抱えているのです。誹謗中傷加害者は50代に多いと言われますが、彼らのような加害者は温故知新で更新していないので、年代は50代でも20代の未熟な過去情報を抱えたまま生きているのです。→ 神戸新聞NEXT|連載・特集|話題|誹謗中傷の加害者は50代男性が最多 「正当な批判・論評だと思った」「イライラする感情の発散」

このような生き方だと歳をとるごとに未熟なままの過去情報を抱えて生きることになり、周りからは老害だと思われることになるかもしれません。だから僕は、人生の中で何回かは過去を再構成することをお勧めしています。その為に「温故知新」で過去を振り返るのです。人間は自己成長せず、過去を更新しないと50代になる頃にはかなり酷くなってしまうので、僕のお勧めは40代くらいから過去の再構成を始めることをお勧めしています。

温故知新は書くことから始まる

(ふる)きを(たず)ねてしきをる、これは自分の過去を温めて新しい何かに気づくことです。ではそれが具体的にどういった作業なのか。それが先日僕がやってみた「静かなる償い」書いて出版したことです。これを書きながら、たくさんのことに気づきました。心も温まりました。書いていない別の気づきも沢山ありました。15歳の頃を振り返り、過去が温まり、その中から新しいことに気づき、得ました。こうすることで過去が更新されます。過去の出来事は変えられませんが、過去に対しての意味づけは変えることが出来ます。

幸せも不幸も、皆、自分で創っている

過去の記憶がこうして温まると、温まった過去情報を無意識に抱えることになります。不幸になる人はこの逆をやっています。恨み辛み、復讐心、自分で過去を冷たいものに変換して、生きれば生きるほど冷たい過去を背負い、そこに蓋をして、更なる苦しみの原因を自分で創ります。そうした道を選択した50代以降の人たちが、周りから老害と言われるようになっています。それでも優しく接してくれる人たちが沢山いるのに、もうその優しささえ見えない心の状態になっている人も沢山います。そして周りが悪いと……。その典型として、無差別殺人などを起こす人間がいます。自分で自分の前頭葉(人間らしさの司令塔)を衰えさせて、自分で自分を不幸にして、それを他人の所為にして人生を終える人もいます。最期まで気づけない人もいます。それはどうしてか。脳の活性化と、温故知新、この2つをやらないから、「感謝脳」が出来上がらないので、自分で拵(こしら)えた不幸ストーリーの主人公のまま、悪化の道を自ら選択し続けたからです。

このことに気づけるようになれば、如何にそれまでの世界が狐と狸の化かし合い、詐欺師の世界、美徳の言葉でカモフラージュした偽物世界かがわかります。

過去の過ちからは逃れられない

過去の過ちから逃れることは出来ません。無理です。自分の過ちは忘れることは出来ません。記憶障害に逃げても無意識に残ります。消し去ることなど出来ません。全ての情報は心の奥に刻まれています。嘘ばかりついて記憶障害になっても、心の奥には残ります。それを仏教的にいうなら「阿頼耶識(あらやしき)」となります。ここに自分の業が蓄積されています。心の貯蔵庫です。これを言い換えるなら「深い長期記憶」です。

自分で貯めた自分の心の情報は、心の奥で纏まりとなりプログラムのようになっていきます。そして自動化されていきます。その自動化によって人は支配されています。その自動化の浅い部分を人間は「習慣」と呼んでいます。習慣を変えるには数ヶ月かかるとか言われますが、習慣でさえ変えるのが大変です。もっと深い部分の自動化になると変えるのが大変な上に、その自動化の強さも違って強力になります。そうした自動的な働きに支配されているのが人間ですから、自分の心の中に何を溜め込むか。それがとても重要なのです。悪事を隠し、墓場までも持っていけばいいと思っている人は、僕が思うに「究極の愚か者」です。自分で自分の心に刻んだことは誤魔化しなんて出来ません。逃れることなんて出来ないのです。つまり自分で溜め込んだ心の情報が性格や人格の良し悪しに表れ、自分の運命を左右し、未来を自動的に創るのですから、罪を心の奥に隠しているというのは、自分で自分の未来の不幸を決定づけているので、幸せになろうと妄想しているような状態なので、僕が思うに愚かなことだなと思うのです。償えばいいのに、、、清算すればいいのにって思います。

この意味がわかるようになって初めて、「静かなる償い」でお伝えしたことの意味もわかるようになるのです。人間は誰でも悪いことをします。僕のように自分の過去の僅かな悪事でも正直に言える人間も言えれば、他人を悪人に仕立て上げながら自身の大量にある悪事を隠してすり替えている酷い人もいます。それ以外でも小さな悪事を重ねている人、罪悪感を感じいている人、過去の過ちを一人で悔いている人などがいますが、償いが出来るということはとても幸せなことです。「静かなる償い」の中でそのことをお伝えしています。

人は自分の善い行いも、悪い行いも、1つ残らず自分の心の奥に「心の足跡」を残しています。決して消えることのない足跡です。

追伸:「究極の愚か者(悪口や見下す意味ではない)」の意味

記事中に「究極の愚か者」と書いたのですが、こう書くとすぐに自分の投影で「人を見下すな!」と言う人もいるのですが、これは悪口や見下す意味ではありません。大谷大学の記事から引用させていただきます。これが僕が思う愚か者の意味です。

愚者とは、真理(ダルマ)を知らない無知な者であり、悪い行ないをなす者であり、欲望と高慢さを持つ者です。世のなかの人間は煩悩を持った愚者です。しかし、その愚者もまた二種類に分けられます。ひとつは、自分が煩悩を持った者であるという自覚がなく、覚りを目指さず、まさに愚者と呼ばれる人です。もうひとつは、自分が煩悩を持った者であることを自覚し、覚りを目指し、愚者でありながら賢者と呼ばれる人です。1引用文献:もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。 | きょうのことば | 読むページ | 大谷大学(https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq00000144ai.html)

広い意味では人間は皆、愚か者です。僕も愚か者です。愚かだと気づき出したところから成長が始まるのです。だから「究極の愚か者」というのは悪口や見下している意味ではないのです。その人の成長を願っての言葉なのです。見下している意味などとして思う人は自分がそういう人だからそう思うのでしょう。自分が愚か者だと思えることは良いことであり、それを自覚させる為に伝えることもまた良いことである場合もあるのです。一番かわいそうなことは自分が愚かだということに気づけないことです。自分が愚かで未熟で幼稚で害を撒く人間であり、人は誰もが個人差はあれどそうであると気づけるから、成長したい!変わりたい!と思えるのです。成長しようともしない、変わろうともしない人は、まだ自分が愚かだと気づいていないのでしょう。僕は自分が如何に愚かで腐っているかを自覚して、変わりたい、そう思うようになりました。

脚注リスト(引用文献・参考文献)

  • 1
    引用文献:もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。 | きょうのことば | 読むページ | 大谷大学(https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq00000144ai.html)

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