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宗教依存症の親のもとで育った
僕の親は昔、宗教依存症でした。願えば叶う。信じていれば救われる。そう信じていたのです(騙されていたと言っても良いでしょう)。そのため、生活の基本も、信念も、思想も、宗教が基本となっていて、1日も欠かすことのない朝晩のお経と共に、信仰を深めている家庭でした。
集団生活・集団行動が苦手だった
普通の家庭のような温かさ、笑い、そんなものはほぼありませんでした。誕生日も祝ってもらうこともなく、運動会などにも親は来ません。それが原因かわからないけど、僕は昔から祝い事や行事が苦手で嫌いでした。幼稚園の頃から集団生活・集団行動が異常なほど苦手でした。それも1つの要因となり、少年院時代は集団寮に移ったその日に逃走しました。少年院からの逃走を決意するほど集団生活・集団行動が苦手になってしまったのです。つまり当時の僕(18歳)にとって集団生活は人生を投げ捨てた方がマシかもと思うくらい集団生活・集団行動が苦手(嫌い)だったのです。嫌いだったのは僕が育った機能不全家庭のような、嘘が多く、陰湿で狡猾な集団です。その後、移送された少年院はとても厳しく健全な環境だったのでとても居心地が良くて楽しい集団生活でした。
宗教依存の親のもとで育ち、自分だけが普通とは違い、異質な存在に思えて、普通の人たちの中にいることが苦しくて息が詰まってしまい耐え切れなくなってくる自分がいました。特別になれという育て方をされ続けて、普通の人たちが如何に酷い人間かということを刷り込まれ続けて育ったことで(左派のルサンチマン的思想)、自分と普通の人たちが違う人間なんだというような感覚が根付いていったのです。それも集団生活が苦手になった原因の1つだったのだと自分では思っています。
悔しくて1人で泣いていた子供時代
話は戻りますが、子供の頃、お経と勉強の強要以外は基本無視されるというような感じでした。僕の親は子供の気持ちを聴くということは皆無でした。全てが決めつけ、押し付けでした。僕が9歳頃になると常に緊張状態の家庭で、食事中は無言で右も左も向いてはいけない薄暗い家庭で、あとは馬鹿にされ、コケにされて、根性なしと罵られて、子供だった僕は悔しくて、数え切れないほど1人で隠れて泣いていたこともあります。大切にされたいというような気持ちと、ぶっ殺してやるという憎しみのような気持ちなどが混ざっていたと思います。
自己犠牲の精神を植え付ける支配
そして親自身も含めてですが子供たちの命さえも宗教以下の扱いでした。つまり何かあれば自分の命を投げ出してでも宗教の本尊を守れという教えでした。これはカルト宗教や暴力団特有の考えです。カルト宗教の場合はテロリストを創る為に自己犠牲の精神を植え付けます。暴力団の場合も同じで鉄砲玉として利用する為に自己犠牲の精神を植え付けます。自己犠牲にこそ救われる何かがあると思い込ませることで、愛情飢餓の人間は自分の命さえも投げ出してでも目的を遂行するようになるのです。自己犠牲の精神を植え付ける支配は最強です。人間を駒にして人間魚雷のように敵に突っ込ませることも出来るので。
心理的な虐待
〇〇をすると地獄に堕ちるとか、地獄から生まれてきた子だとか言われて、恐怖と自尊心が傷つく中で心を支配されていきました。これは以前下記記事でお伝えしたように、心理的な虐待です。
心理的な虐待を受け続けて育った為、僕は自分を大切にしていいのだという感覚がよくわかりませんでした。自分を犠牲にすることこそが認められることだと心に根付いていて、自分を大切に思うことが怖くて苦しくて、自分を大切にして良いのだと思えるようになるまでに、心の中での強烈な葛藤や、不安、恐怖、苦しみ、架空の罪悪感、色々あってそれが解けるまでに長い時間がかかりました。三つ子の魂百までと言うように、子供の頃刷り込まれたものは、潜在意識(無意識)に刷り込まれやすく、それが長く続くくらい強力なものとなり得ます。だからそれらを解くことはとても難しいのです。難しいからこそ力になります。それを解いたからこそ、僕はもう同じような悪い暗示にかかりませんし、それに関しては流されない心を持つことが出来ました。良い勉強になったのです。だから宗教も恨んでいないし、親への恨みも持っていません(昔は恨みました)。
心理的な虐待を受けて良かった
宗教依存の親のもとで育ったことも、心理的な虐待を受けたことも、苦しい出来事だったけど良かったです。この経験をしたからこそ自分を大切にしていいのだということに対しての強い確信と、それに関する信念を持てるようになったのです。宗教の信者らは怯えています。怯えながら権威に縋っているのです。彼らは僕のように自分1人で自分の味方になるということが出来ません。出来ないからこそ外部に縋り付いて権威に媚びて、その力(群れの力も含む)を借りて他力本願で生きているのです(皆がそうだというわけではないが)。そんな人たちが決して出来ないことを僕は出来たわけですから、それが出来たということは苦しかった経験があったからです。それがわかるようになったので、過去を肯定出来るようになったのです。
宗教依存症の人はメサイアコンプレックスを抱えている可能性がある
メサイアコンプレックス(救世主妄想)を抱えている人は基本、マッチポンプな関わり方をしてきます。要は、ダメになるように誘導してから救いの手を差し伸べてきて、感謝を強要するという感じです。僕の親もそうでした。だから無意識のうちに周りをとことんダメにしていくので、家庭家族という組織が健全に機能することなく、どんどん壊れていきます。壊れるようなやり方をしているからです。本人はそこに気づいていません(コンプレックスは無意識のうちに本人を突き動かすため気づけない)。コンプレックスの核にあるもの、それは「深い心の傷」です。親も人間。心の傷を抱えていて、苦しいから救われたい一心で生きていたのです。それが間違った道であっても、自分なりの最善の道を歩んでいたのです。それがわかったら、相手を赦すことも出来ます(行為は許す必要がない)。そして自分自身にも沢山の問題があることがわかってきます。なので少しずつでも良いので自分の心の問題を解決していけば良いのです。コンプレックスは距離感の近い者同士だとうつります。つまりメサイアコンプレックスを抱えていた親に育てられた僕もまた、似たような部分があったので、僕はそこを自分なりに解消してきました。
上記記事でお伝えしたように、メサイアコンプレックスは戦争時の怨念のようなものです。つまり世代間連鎖して無意識のうちに受け継いでしまっている部分があるのです。だからこそ、自分の中からそれらを省いていくことが大事なのです。ロシアがウクライナに侵攻しましたが、実は当初、ウクライナではなく日本を攻撃する計画だったのです。 今のウクライナの悲惨な状況は実は僕ら日本人が経験するはずだったのです。その計画が途中で変更されたそうです。戦争は拷問など残虐な行為が伴うものですから、怨念のようなものが世代を超えて影響していくのです。それが形を変えて「虐待など(親族間殺人もそうでしょう)」になっているのです。だから我々人間は自分の心、無意識の中にあるものを出来るだけ意識化していき、そこにある虐待的要素を省いていく作業、心理的努力が必要なのです。断ち切らないといけないのです。勇気を持って自分の無意識を意識化し、自分の中にある虐待的要素を省きましょう。それが自分のものであろうが、他人(親など)から刷り込まれたものであっても、それらを自分の心に中に入ることを許したのは自分です。自分の問題なのです。自分の心の管理者となり、しっかり省くべきものを省いていきましょう。
僕はそれをサヨナラ・モンスターの方法(書くこと)で変えていきました。無意識を意識化しながら変えていきました。とても良い方法で効率よく変えていけます。自分を変えていく、それが最善であり、王道です。他人の問題は他人のものです。人は皆、自分の問題解決に取り組むべきなのです。メサイアコンプレックスを克服したい人は「こちら」をお読み下さい。