盗み見そのものも苦しい。けれど本当に人を壊していくのは、そのあとに「それはあなたの主観だ」と現実まで奪われることです。
何度も盗み見をしてくる相手がいる。
こちらは実際にその瞬間を自分の目で見て、はっきり確認している。録画すれば映るレベルで分かる。だから「やめてほしい」と伝える。すると相手は、その事実を認めず、まるでこちらの“感じ方”の問題であるかのように扱ってくる。
「ああ、そう感じたんだったら」
「そんなつもりじゃない」
「気にしすぎじゃない?」
「被害的に受け取りすぎでは?」
こうした返しは、一見すると穏やかで、角が立たないようにも見えるかもしれません。けれど、その実態は穏やかどころではありません。そこには、現実に起きたことを曖昧にし、被害を受けた側に自己疑念を抱かせる構造があります。
しかも、このようなことは一回きりで終わるとは限りません。繰り返されることがある。何年も、何十年も続くことがある。そのたびに、安心感は削られ、警戒心が強まり、言葉にできない疲労が積み重なっていきます。
そして周囲から見えにくいぶん、この苦痛は軽視されやすい。
「そんなに大げさに考えなくても」
「流せばいい」
「考えすぎ」
そんなふうに片づけられやすい。
けれど私は、これは軽く扱っていい問題ではないと思っています。
なぜなら、ここで起きているのは単なる不快感ではなく、境界線の侵害、現実のすり替え、慢性的なストレス状態への追い込みだからです。
この記事では、
なぜ盗み見がこれほど嫌なのか、
なぜ「あなたの主観」とすり替えられることがここまで苦しいのか、
なぜそれが慢性的なストレスとして心身をむしばんでいくのか、
そして、こうした行為の深刻さがなぜもっと正しく理解されるべきなのかを、丁寧に掘り下げていきます。
これは、ただ「嫌だった」という話ではありません。
人の尊厳が、静かに、しかし確実に傷つけられていく話です。
「盗み見を指摘すると「それはあなたの主観」とすり替える人たちへ――ガスライティング的な手口が、なぜこれほど深く人を消耗させるのか」の続きが購入後に読めます。


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