自分の苦しみも、分からなかった。
書き続けながら、少しずつ自分に会いにいった。
今は、あの自分を置き去りにしなくてよかったと思う。
この記事で伝えたいこと
僕は31歳から約15年間、自分の思考や感情を書きながら、自己認識と自己理解を深めてきました。心の痛みと向き合う道は苦しかったけれど、今は「向き合ってよかった」と思っています。自分の感情を理解すること、自分の責任と他人の責任を分けること、距離や境界を選ぶこと、経験を創作や仕事へ生かすこと。そして、自分の理解が間違っていたら修正すること。そうした変化が、少しずつ積み重なってきました。今も不調や負担はあります。それでも、自分を見捨てずに生きる土台が育ってきたことは、僕にとって大きな成長です。
苦しんでいるのに、自分が何に苦しんでいるのか分からない。苦しいということさえ、十分に分からないほど苦しんでいる。
31歳より前の僕は、自分のことを振り返ると、そんな状態でした。自分の感情が何を訴えているのか。どうして同じように苦しくなるのか。自分は何を大切にしたいのか。それらを、自分で理解できていなかったのです。
そこから、自分の心の問題と向き合い、書き続けてきました。約15年というのは、31歳から始めた自己理解の歩みを、今振り返って表している、おおよその期間です。
今回は、その間に僕の中で何が変わり、今どんなところにいるのかを、僕自身の経験と考えとして書きます。順調な成功談だけにせず、苦しかったことも、今だから見えてきたことも、大切にしたいと思います。
31歳より前にも、僕を支えてくれた出会いがあった
31歳から本格的な自己理解を始めたことを書く前に、もう少し前の自分についても触れておきたいと思います。
僕には、少年院で一人の人間として向き合ってもらい、大切にされていると受け取った経験があります。自分の問題のある行動には厳しく関わりながら、それでも僕という人間を見捨てない。先生との関わりや約束は、その後の僕を支える大切な土台になりました。
その頃から、僕の中には、守りたいものや、良心に応えようとする気持ちがありました。ただ、それだけで自分の深い苦しみまで理解できるようになったわけではありません。
更生を支えてくれた出会いと、31歳から始めた深い自己理解。それぞれ別の時期にあった、大切な歩みです。後から得た理解だけで、それ以前の自分や、支えてくれた人の存在を消したくないと思っています。
31歳から、分からなかった自分を、書く対象にしていった
僕が始めたのは、自分の中で起きていることを、できるだけ言葉にしていく作業でした。
自動的に浮かぶ考え。悲しさ、怖さ、怒り。身体の反応。同じような場面で繰り返す苦しさ。そうしたものを、思考や感情として書いていったのです。
最初の6年間、思考や感情を書き続けて、だいぶ回復したという実感がありました。その後も書くことを続け、自己認識や自己理解を深めていきました。
もちろん、何年目にこの課題が終わり、次の年には次の段階へ進んだ、ときれいに区切れる歩みではありません。分かったと思ったことを、もう一度考え直すこともありました。別々だった経験が、後になってつながることもありました。
ここでいう自己認識は、「今、自分の中で何が起きているか」に気づくこと。自己理解は、その気づきを手がかりに、「どうしてこう反応するのか」「自分は何を守ろうとしているのか」と、つながりを理解していくことです。
最初から自分のことがよく分かっていたから、書けたのではありません。分からない自分を、分からないまま終わらせたくなかった。僕にとって、書くことは、そこから始まったのだと思います。
言葉にならなかった痛みを、自分まで切り捨てない
自己理解を深めれば、今まで分からなかった心の痛みや苦しみに触れることにもなります。だから、楽なことばかりではありませんでした。
ただ苦しい。ただ嫌だ。ただ腹が立つ。その奥に、悲しかったこと、怖かったこと、分かってほしかったこと、守りたかったものがある。僕は、そうした自分の気持ちを少しずつ理解していきました。
「こんなことを思う自分はだめだ」と切り捨ててしまうと、その感情が何を訴えているのかを知る機会まで失ってしまいます。僕は、自分の気持ちを、自分まで無視したくありませんでした。
置き去りにされ、悪者扱いされ、言葉を失っていた以前の自分。今の僕は、その自分の声を聴く側に立ちたい。自分一人でも、戻って理解してやりたい。そういう思いが、僕の中にはあります。
僕が大切にしている自己受容は、まず、自分に起きたことや、今ここにある感情を、自分の経験として受け止めることです。その感情を持ったことだけで、自分の存在を否定しないことでもあります。
そして、感情を受け止めることと、その感情のまま何をしてもよいことは、分けて考えています。怒りが何を守ろうとしているのかは聴く。そのうえで、どう行動するかは選ぶ。この両方が、僕には必要でした。
苦しみを、自分の欠陥だけで説明しなくなった
書いていく中で、自分がどんな状況に置かれ、どんな言葉や価値観の影響を受け、どうしてその場で気持ちを表せなかったのかが、少しずつつながってきました。
反応だけを切り取ると、「どうしてそんなに苦しむのか」「どうしてそんなに怒るのか」という話になってしまいます。しかし、その前に何が続いていたのか、何を言えずにきたのかまで見ると、理解は変わります。
そこで見直したのが、認知、つまり出来事の受け取り方や意味づけです。
例えば、これは説明のための例ですが、「相手の機嫌が悪い」という出来事に、「私が悪い人間だからだ」という意味を重ねていたら、その二つを分けて確かめることができます。相手の機嫌だけで、自分の価値まで決まるのだろうか、と。
自分の内側を見ることは、周りの環境を見なくなることではありませんでした。むしろ僕の場合、自分を理解するほど、自分と相手、出来事と解釈、過去の状況と今の選択を、分けて見られるようになってきたのです。
自分の責任を引き受けることと、していないことを背負わないこと
この歩みの中で、とても大切になったのが、責任を正確に分けることです。
僕が実際にした行動については、何が間違っていたのかを見つめ、必要なら謝り、修正し、行動を変えていく。その責任は、僕自身のものです。
僕には、していないことをしたとされ、被害を訴えた側から加害者へすり替えられた経験があります。その非難まで引き受ける必要はありません。
別の場面で僕に反省すべきことがあることと、でっち上げられた非難が事実であることは、つながりません。ここを混ぜると、正直に自分を振り返ることまで、していないことを認めたように扱われてしまいます。
自分の行為は具体的に見直す。自分がしていないことは、していないと分ける。自分を大切にすることと、誠実に責任を持つことを、僕は一緒に育ててきたのだと思います。
理解が深まると、関わり方や境界も選び直せるようになった
分かるようになったことを、文章の中だけで終わらせず、日常の選び方へ移していく。そこにも、長い時間がかかりました。
関係から距離を取る。関わり方を変える。分かってもらえるまで説明し続けなくてもよいと考える。相手の言葉だけでなく、その後の行動を見る。そうした選択も、自分を守ることの一部になっていきました。
ここでいう境界は、「どこまで自分が引き受け、どこから先は相手が担うのか」という線引きです。他人の問題の後始末を、いつまでも自分一人で背負うことまで、成長の条件にしなくてよいと思っています。
受け取ったものへの感謝があっても、その関係に戻ることを選ばなくてよい。相手を理解しようとしても、関わり続けることを選ばなくてよい。僕には、そうした気持ちと選択を両方持つことが大切でした。
自分の心を理解することと、苦しみが続く条件を変えること。その二つが、僕の生活の中で少しずつつながってきたのです。
自己信頼は、「自分が間違えば修正できること」まで含んでいる
僕は、自分の歩みを、自己認識、自己理解、自己受容、過去理解、過去受容、自己信頼という流れでも整理してきました。これは僕自身の実践を表すもので、誰もが同じ順序で進むという段階表ではありません。
特に大切なのは、最後の自己信頼です。
僕にとって、自分を信じるとは、何を考えても自分が正しいと言い張ることではありません。自分の感情を粗末にせず、現実を確かめ、間違いがあれば理解や行動を修正できることまで含めた信頼です。
著書『過去を理解したら、過去に囚われなくなった』の第15章でも、この考えを書いています。
自分の説明を修正することが、いつも自分を裏切ることになるわけではありません。反対に、自分を見捨てない立場があるからこそ、自分の間違いも確かめられる。僕は、そこに自己信頼の深さがあると考えています。
自分が不当に扱われたときには、それを自分の責任にしない。自分が間違えたときには、そこを見ないふりにしない。どちらのときにも、自分のそばを離れず、現実を一緒に見ていく。
僕がサヨナラ・モンスターで伝えてきた「自分が自分の親になる」という言葉にも、その意味を込めています。
書くことは、理解と選択を行き来するための場所だった
振り返ると、僕にとって書くことは、感情を外へ吐き出すだけで終わるものではありませんでした。書いたものが残ることで、後から見直し、別の経験と比べ、新しい意味に気づけるようになったのです。
僕自身の歩みを整理すると、次のような循環がありました。
- 思考や感情、出来事を言葉にして、後から見直せる形にする。
- 何度も出てくる苦しさと、そうならなかった例外に気づく。
- 出来事、感情、解釈、責任の所在を分けて理解する。
- 距離、関わり方、行動を選び直す。
- その後に起きたことを見て、理解を更新する。
これは、僕の経験から考えた、書くことの働きです。一つの研究が、この循環全体や僕の約15年を直接検証したという意味ではありません。
大切だったのは、書いた文字数だけではなく、書いたことから何を理解し、現実の中で何を選び直したかでした。僕が心理的セルフヘルプについて発信してきた考え方も、自分を理解し、自分の生活へ生かしていくという姿勢につながっています。
筆記の研究と、僕自身の長い実践は区別して考える
経験や感情を書いたり開示したりする取り組みは、研究でも調べられています。ジョアン・フラッタローリ(Joanne Frattaroli。発表当時、米国カリフォルニア大学リバーサイド校の心理学研究者)は、2006年に146件の無作為化研究を統合し、平均では小さなプラスの効果を報告しました。原論文の抄録・書誌
一方、カロリン・モーク(Carolin Mogk。発表当時、ドイツ・ゲッティンゲン大学の臨床心理学・心理療法部門所属)らによる同年のメタ分析、つまり複数研究を統合する分析では、30試験を統合した心理・身体の健康指標に統計的に有意な効果を確認できませんでした。原論文の抄録・書誌
取り上げる研究や評価の条件によって、結果は一様ではありません。また、短い筆記課題等を調べた研究から、僕の長年の自己理解や、教材の効果が証明されたとは言えません。僕の歩みには、書くことに加え、学ぶこと、歩くこと、音楽、関係からの距離、生活や仕事の変化もありました。
それらを区別したうえで、僕自身が「書き続けることは、本当に大事だった」と実感していることを、ここに残しておきたいと思います。
自分のために続けたことが、創作や仕事にもつながっている
自分を理解するために行ってきたことは、次第に、本や教材、文章、創作へと形を変えていきました。
書く実践を整理したサヨナラ・モンスター。歩くことを取り入れたトラウマ転換ウォーキング。感情を静かな持続力へ向けることを考えたエモーションプラス。それぞれに、自分の経験を見つめ、理解したことを伝えられる形へしてきた歩みがあります。
現在のAIを使ったWeb関係の制作・開発やクライアントワークでも、小さな違和感に気づくこと、問題を分けること、大量の情報のつながりを見ることが役に立っていると感じます。
昔は、自分の苦しみを理解するために必要だった観察や整理が、今は、誰かの困りごとを解くためにも使える。そのつながりには、僕自身、意味を感じています。
つらかった出来事を、よかったことに変える必要はありません。僕が大切にしたいのは、その後、自分が書き、学び、考え、行動しながら、経験から使えるものを取り出してきたことです。
過去に何があったかだけではなく、その経験を持つ自分が、今、何をつくり、何を大切にして生きるか。そこにも、僕の成長は表れてきたのだと思います。
今も不調はある。それでも、新しい自己理解が進んでいる
現在の僕にも、頭痛などの不調や、生活上の負担は残っています。もう何も苦しまない、という状態になったわけではありません。
ただ、負担が残っていることと、これまでの成長がなかったことは、同じではないと思っています。自分の感情に気づけること、責任を分けられること、休むことや距離を選べることは、今の自分を支えています。
最近になって、以前より余裕ができ、これまで十分に扱えなかった苦しみの、別の層に理解が届き始めています。
今になって分かることがあるのは、それまで自分と向き合ってこなかったから、とは限りません。変化し、成長してきた今の自分だからこそ、見られるようになったものもあるのです。
自分自身が変化するのだから、自己理解も変化していく。僕は、自己認識や自己理解は、一度やって終わりではなく、人生とともに続いていくものだと考えています。
今は過去の記録を整理し、自己理解を深める仕組みにAIも使っています。資料を探すこと、比較すること、つながりを整理することを手伝ってもらいながら、説明が違うと思えば訂正し、確かめ直しています。自分の人生の意味や選択を、AIの評価だけで決めるつもりはありません。
今の僕が大切にしたいのは、得た理解を、静かに暮らし、休み、自分の大切なものを守れる生活へつなげていくことです。
自分の声を受け取る一行からでも、始めてよい
ここまで読んで、「自分も15年間、苦しいことを書き続けなければならない」と思ってほしいわけではありません。これは僕自身がたどってきた道であり、同じ長さや方法を、人に求めるものではないからです。
もし書いてみたいと思える日があれば、今の自分に受け取れる、小さな一行からでもよいと思います。
例えば、次のようなものです。これは実在する誰かの記録ではなく、記入の例です。
- 「今日は寂しかった。最後まで話を聞いてほしかったのかもしれない」
- 「私が実際にしたことと、相手から言われたことを分けてみたい」
- 「今は疲れている。今日は考えるのをやめて、休もう」
うまい文章にすることや、誰かへ公開することは必要ありません。分からない気持ちは、「まだ分からない」と残しておくこともできます。厚生労働省の「今の気持ちを書いてみる」でも、人に見せることを前提とせずに気持ちを表す方法が紹介されています。
書くほどつらくなるときは、中断してよいのです。休む、保留する、信頼できる人や心理・医療の専門家に整理を手伝ってもらうことも、自分を守る選択です。
僕が伝えたいのは、自分の声を、自分まで切り捨てなくてよいということです。その声に、今日できる形で関わるところからでよいと思っています。
あの自分を、置き去りにしなくてよかった
31歳から約15年、僕は自分の心の問題と向き合い、書き続けてきました。
その間に増えたのは、知識だけではありません。自分が何に苦しんでいたかを理解すること。感情を切り捨てず、行動は選ぶこと。責任を正確に分けること。必要な境界を持つこと。経験を仕事や創作へ使うこと。そして、今の自分の理解も更新していくことです。
僕にとっての心理的成長は、自分の人生に対して、そうした関わり方ができるようになってきたことです。
苦しかった自分を、なかったことにしなかった。よく分からないまま、「もういい」と置いていかなかった。書き、学びながら、少しずつ理解しようとしてきた。
今も、まだ続いています。それでも、今の僕は思います。
向き合ってよかった。書き続けてよかった。
あの頃の自分を見捨てずに歩いてきたことが、今の僕を支えています。
この歩みをさらに知りたい方へ
『過去を理解したら、過去に囚われなくなった――12年間「過去を振り返るな」に違和感を持ち続けた僕が辿り着いた、書くこと・過去理解・過去受容・心の温故知新』(菅原隆志、Kindle版)では、過去を理解し、受け止め、今の選択へつなげていく考えをまとめています。特に第15〜17章は、今回の自己信頼や、経験を現在の仕事へ生かす話とつながります。
この本は、僕の経験と考えを知るための資料です。書名・副題は刊行された本の表記を用いています。
主な参考資料
本文の歩みは、僕自身の経験と振り返りです。以下の研究や公的資料は、筆記について考えるための補足として参照しました。研究について今回確認した範囲は、公開されている抄録と書誌情報です。
- ジョアン・フラッタローリ(2006)。経験・思考・感情の開示を扱う実験研究のメタ分析(Experimental disclosure and its moderators: a meta-analysis)。心理学の学術誌『サイコロジカル・ブレティン(Psychological Bulletin)』132巻6号、823–865頁。DOI:10.1037/0033-2909.132.6.823。
- カロリン・モーク、セバスティアン・オッテ、ベッティーナ・ラインホルト=ハーリー、ビルギット・クレーナー=ヘルヴィヒ(2006)。ストレスやトラウマ経験について書く介入の健康効果のメタ分析(Health effects of expressive writing on stressful or traumatic experiences — a meta-analysis)。心理社会医学の学術誌『サイコソーシャル・メディシン(Psychosocial Medicine)』3巻、Doc06。
- 厚生労働省。こころのセルフメンテ「今の気持ちを書いてみる」。
資料・書籍情報の確認日:2026年10月17日。アイキャッチ画像は、記事の内容に合わせてAIで作成したイメージです。


Conversation
Be the First Voice
読んだだけで終わらせないでください。
感じたことを、コメント・発信・メモなど、何かの形で外に出してみてください。
反応した瞬間から、変化は始まります。
この場所に、最初の感想や気づきをそっと残せます。