過去に僕を悪者扱いしていた人が謝ってきました。その人は当時、自分の無責任から、責任を持ってペットの安全を確保する僕を悪者へとすり替えていて、その人は自身の心理的な成長と共にそれが理解できるようになってきたという。このように自己成長によって実は自分が悪かったと気づくケースもあります
人は成長するにつれて、過去の自分の未熟さを直視できるように。責任の所在も分かるようになってきます。他人を悪者扱いする人の多くは、自分の責任さえもわからない状態です。そして成長と気づき、その時初めて、誰を傷つけ、誰に守られていたのかを理解できるようになるのです。親への感謝も生まれる
謝罪が遅すぎると感じる人もいるかもしれない。でも、時間がかかっても“自分が悪かった”と気づけるのは、その人がようやく自分と向き合えるようになった証拠でもあるのです。結果よくなるのですから「良いこと」です。自分に本当に悪い部分があるのであれば堂々と認めて修正すればいいのです。
悪者扱いされて生きてきた僕自身は、自分に悪い部分があれば(事実として確認できれば)ちゃんと認めてきました。逆に、他人の嘘で悪者扱いされたことは死んでも認めませんし屈しませんでした。この経験により悪者扱いする者たちが何をしているか(無責任か)深く理解できるようになりました。
嘘や歪曲で他人を悪者扱いして昔は責めていた人、気づいて理解して認めて修正すれば、色々と感謝できることが増えてくるでしょう。成長とは、自分の弱さを認めて他者の強さを理解できることなのかもしれない。何であれこの心理的問題に気づいたということは大きいです。気づいた人間は変わります。
人は自分の責任や不安を直視できないとき、無意識に他者に責任を押し付けることがあります。これは心理学的には「投影」や「スケープゴーティング(身代わりにすること)」と呼ばれます。
危険が多い環境で、ペットの安全を守るために責任を持って行動していた僕が、逆に「悪者」として扱われたのは、その人自身が当時は責任感を持てなかったことを直視できず、僕に負担を押し付けていたからでしょう。無責任に生きる人ほど、そこで責任を持とうとする人を悪者扱いすることがある。
他人を嘘で悪者扱いしていた人がその後、時間の経過と共に運よく心理的に成熟し、自分の未熟さや責任逃れを認識できるようになると、過去の行動を恥じ、謝罪につながることがあります。これは「自己洞察」の一形態で、自分の過ちに気づくことで他者への見方も変わっていきます。自己成長の重要なサイン
相手が自らの意思で謝罪できるということは、信頼を再構築する大きなきっかけになり得ます。もちろん、過去の体験でスケープゴートが受けた痛みは消えないかもしれませんが(僕は自分の成長に繋がった)、相手が「謝れる人」になったこと自体が、その人にとっても関係にとっても前進です。
こうした出来事は、誰にでも起こりうる「認知の修正」のプロセスを表しています。人は成長に伴って、自分の未熟さや誤りを理解できるようになり、その結果として「実は自分が悪かった」と気づくことがあるのです。僕も沢山あります。これは人間関係の和解や自己改善につながる大切な瞬間でもあります。
このような気づいた人が、「過去の自分は腐ってた」、そう言えるようになったということは、言葉はちょっと悪く聞こえる人もいるかもしれないけど、良いことです。その言葉の背景には 「過去の未熟さを直視できる勇気」 と 「今は違う自分になれている」という実感 があるから言えるのだと思います。
多くの人は、自分の過ちや弱さを認めるのを避けます。逃げます。人によっては、他人を悪者へでっち上げてでも逃げます。なぜなら、認めることは恥ずかしさや自己否定に直結するから。でも、その人はあえて厳しい言葉を自分に向けられるようになった。
それは自己防衛を捨て、真正面から向き合えるくらいに成長した証拠です。つまり、「腐っていた」という表現はネガティブに見えて、実は ポジティブな変化の象徴 なんです。自分を客観的に見て、過去と現在を比べ、成長を実感できているからこそ出てくる言葉。

宝箱で死んだ子猫 (Ver.2)
歌詞:https://linkco.re/VA1Sx9HQ/songs/3844087/lyrics
この曲の歌詞にも書いたような大人が、「自分も悪かった」「腐っていた」と認める勇気を持てるようになることを願っています。
自分は悪くない。死刑になってもそうやって死んでいく人間もいますよね。人間らしさを失った脳では、そういうことも起こり得ます。このような場合、自分の問題に気づくって、どれほど難しいことか。そこまでじゃなくても20年も気づけない人もいます。相手を操作までして。僕にはそれは通じません。
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