人や動物を傷つけることを、家の中の当たり前にしたくない。傷つけられた側が声を上げたとき、その人を悪者にして話を終わらせる関係も、当たり前にしたくない。
僕の理想は、一人ひとりが良心を大切にし、自分の行為に責任を持ち、大切な存在を守れるようになることだ。温かく、安心して暮らせる場所を、それぞれの行動で作っていきたい。
長い時間をかけて、自分の経験を振り返り、ようやくこの願いがはっきりしてきた。今回は、人生や人間関係のすべてを説明するのではなく、僕がこれからも大切にしたい一つの原則を書き残したい。同じような関係で疲れている人にとっても、自分が何を守りたいのかを整理する手がかりになればと思う。
この記事で伝えたいこと
苦しさや怖さを抱えていることと、関係のない人や動物を傷つけてよいことは別だ。自分がしたことを隠し、相手を悪者にする方向へ進むのではなく、自分の行為に目を向けて、やめ、修正していく。その勇気を持ってほしい。
僕が求めてきたのは、小さな訴えに応じられる暮らし
人が具合を悪くして休むときには、休めるように気を配る。猫が何かを訴えていたら、必要としているものは何かを確かめる。危険につながることが分かったら、次に起こさないために動く。
僕は、そういう暮らしを望んできた。誰か一人が気づき、考え、説明し、後始末まで引き受けるのではなく、一緒に暮らす大人が、それぞれに安心と安全を作る側に立ってほしかった。
以前の記事では、猫の食事をきっかけに、安心できなかった子ども時代の食卓と、今の僕が願う温かい暮らしについて書いた。食べなかった猫が、僕の部屋ではご飯を食べた――安心できなかった子ども時代の食卓と、僕が願う温かい暮らし。今回の話も、この願いにつながっている。
僕自身、相手への嫌悪を抱えながらも、同じ家で暮らす以上、その感情をそのまま家の空気にしないようにしてきた。普通に会話し、猫たちのことも考えて、なるべく穏やかに、笑って過ごそうと努めている。それにも力が要る。
なぜ、本来の問題と関係のない相手が傷つけられるのか
僕が長年の関わりの中で繰り返し見てきたのは、外で何かを言えなかったり、嫌なことがあったりした後に、家の中で、病気の僕や動物へ嫌がらせが向けられるというパターンだった。
やめてほしい、苦しい、負担になると伝えた後も、行為は繰り返された。しかも、その問題を話そうとすると、今度は僕の反応や怒りが問題にされ、最初に何をされたのかという話がうやむやになることもあった。これが長い年月、僕を疲れさせてきた。
ここでいう「弱い立場」は、人として価値が低いという意味ではない。病気や生活上の事情で離れにくい、強く拒みにくい、動物のように人間へ生活を頼らざるを得ない。そうした、その関係の中での立場を指している。
心理学には、置き換え攻撃(displaced aggression)という言葉がある。怒りを生んだ相手とは別の相手へ、攻撃が向かうことをいう。米国の心理学者エイミー・マーカス=ニューホールらは、2000年に実験研究を統合したメタ分析を発表している。原著論文(英語・PDF)。
この概念は、僕が見てきたパターンの一部を考える手がかりになる。ただし、この研究によって、僕の関係者の動機や、一つひとつの行為の理由が証明されたわけではない。外での不満を家へ持ち込み、反撃しにくい相手へ向けているのではないか、という部分は、僕が経験の積み重ねから考えている見方だ。
行為を隠し、訴えた人を悪者にすると、何が起こるのか
僕が問題にしているのは、八つ当たりだけではない。その後に、したことを否定し、事実と違う説明を重ね、被害を訴えた相手のほうを悪く扱うことが続いてきた点だ。
僕は、認めにくい行為を自分で引き受けたくないために、それを隠し、嘘や責任のすり替えが重なっていったのではないかと考えている。内心を直接確かめられるわけではないが、行為の後に何が起き、元の問題がどう扱われたかを振り返ると、このつながりを見過ごせない。
責任を問われた際の「否認・相手への攻撃・被害者と加害者の立場の逆転」を表す概念に、DARVO(ダーボ)がある。提唱者はジェニファー・J・フレイド(米国・オレゴン大学の心理学名誉教授)だ。本人による定義は、このような反応の構造を説明している。否認や意見の対立だけで、誰かの加害やDARVOを認定できるわけではない。
僕がここで注目したいのは、問題の中心が二度動くことだ。最初は、外で抱えた問題から家の中の相手へ。次には、傷つけた行為そのものから、それを訴えた相手の反応へ。これは、僕が自分の経験を整理するために捉えた構造であり、二つの概念をつなげれば個別の動機まで分かる、という意味ではない。
その結果、傷つけられた側は、苦痛に耐えるだけでなく、何が起きたのかを説明し、事実と違う話を訂正し、元の問題へ戻す仕事まで背負うことになる。話し合っているのに、改善のための話へたどり着けない。その負担も大きかった。
「僕にも間違いがある」と「その行為はやめてほしい」は両立する
僕も人間だから、間違える。自分の言い方や判断を見直すべきこともある。自分がいつでも正しいとは思っていない。
けれど、それと、弱い立場の人や動物へ鬱憤を向けてよいかどうかは、分けて考える必要がある。僕に直すべき点があるなら、その具体的な点を扱えばいい。それを理由に、別の有害な行為まで正当化することはできない。
「気にしすぎ」と言われても、すでに苦痛や悪影響が伝えられ、繰り返されている行為を、その一言で終わらせてよいとは思わない。僕はこの原則を曲げたくない。人や動物が安心して暮らせるように、行為を止め、予防してほしいという願いは、大切にしてよいものだと思っている。
僕が「行為としての腐敗」と呼ぶもの
傷つける。隠す。事実を歪める。訴えた人を悪者にする。そして、自分の行為を見直す機会が失われ、同じことが続く。僕は、このような積み重なりに「行為としての腐敗」があると考えている。これは僕自身の倫理的な表現で、心理学の診断名ではない。
問題は、最初の行為だけで終わらなくなることだ。隠すための説明を守ることが優先されれば、傷ついた相手の声を聞くことや、行為を修正することが、さらに遠のいてしまう。僕には、何重にもカモフラージュされたものに向き合う難しさが、そこにあるように思える。
それでも、僕が求めているのは、その人に一生変われないという烙印を押すことではない。自分が何をしたのかを認め、その行為をやめる方向へ、力を使ってほしいということだ。人の本質を悪と決めつけるのではなく、実際の行為と、その影響を見てほしい。
勇気とは、弱い相手に強く出ることではない
怖い相手に言えないことがある。すぐには解決できない問題もある。そのこと自体を、僕は責めたいわけではない。危険な相手へ、無理に直接立ち向かう必要もない。距離を取る、助けを求める、安全に伝える方法を考えることも、問題と向き合う選択になる。
ただ、その苦しさを、関係のない人や動物への嫌がらせに変えてしまうことは、やめなければならないと思う。傷つけたことに気づいたら、次に守るべきものは、自分が正しく見える説明よりも、相手の安全と、自分の誠実さだと僕は考えている。
具体的には、こんな行動が必要になる。
- 指摘された行為を、まず止める。相手の反応を責める前に、自分が何をしたのかを確認する。
- 事実と違う説明をしたなら訂正する。謝罪を、相手に許しや安心の言葉を求める機会にしない。
- できる修復と、繰り返さないための方法を決め、実際に続ける。自分だけでは難しい部分は、適切な支援を求める。
気づいたと言うことには意味がある。けれど、共に暮らす相手が必要としているのは、その言葉の後に、嫌な行為が減り、休める時間や安全が実際に増えることだ。改善の段取りまで、傷ついた相手一人へ任せないことも大切だと思う。
僕自身にも、向き合うべき過去があった
自分の行為と向き合ってほしいと書く以上、僕自身もその問いの外にはいない。僕にも過去に、向き合うべき行為があった。そのことを振り返り、自分なりの償いについて書き残したのが、『静かなる償い(罪悪感を手放す方法)』という僕の書籍だ。
この本と今回の記事に共通するのは、他人の問題を語ることと、自分のしたことを引き受けることを、切り離さないという姿勢だ。償いの形は事情によって違うし、被害を受けた相手に、許すことや関わり続けることを求めるものでもない。
自分の間違いを認めることは、今、自分が受けている被害を黙って引き受けることでもない。自分の責任と、他人が負うべき責任を、それぞれの場所へ戻していきたい。
良心を守ることを、日々の行動に戻していきたい
僕にとって良心を守るとは、立派な言葉を持つことだけではない。小さな訴えに気づこうとする。嫌だと言われた行為を止める。自分に不都合でも、事実を歪めない。大切な存在が安心できるように、今日の動き方を変える。そうしたことの中にある。
もし自分の振る舞いを見直したいと思ったら、「今日、私が止める行為は何か」「代わりに何をするか」を一行だけ書くところから始めてもよいと思う。心の奥をすべて説明できる日まで、具体的な行動の修正を待つ必要はない。
一方で、傷つけられてきた側が、相手の成長を一人で担い続ける必要もない。休むこと、話し合いを保留すること、距離や支えを増やすことも、自分と大切な存在を守るための選択になる。僕自身も、その余地を少しずつ増やしていきたい。
僕は、弱い立場の存在を軽く扱うことに慣れる生き方を、自分の当たり前にしたくない。大切なものを大切にし、良心を守ろうとする人を支える側に立ちたい。その願いは、これからも変えるつもりはない。
自分が身につけてきた価値観を、もう少し考えたい方へ
自分では当たり前だと思っている振る舞いが、どこから来たのか。恐れていた相手の価値観と、今、自分が大切にしたいものを分けて考える視点は、「これが自分だ」と思っていた価値観は、恐怖から取り込んだものかもしれない――恐怖への同一化と自己理解で説明している。すべての価値観が恐怖から生まれるという意味ではない。
その問いをさらに掘り下げた恐怖と自己理解についての、僕とAIの対話もある。記事中の「9割」「8〜9割」は統計ではなく、僕とAIの推測なので、数字による裏付けとしてではなく、自己理解の難しさを考えるための対話として読んでほしい。
気持ちを見ないままやり過ごすことと、休んで回復することの違いについては、「嫌なことは寝て忘れればいい」は、実は心にとって不健全な場合もあるでも考えている(会員限定記事)。つらい記憶を無理に振り返るためではなく、自分のペースで向き合い方を選ぶための関連記事として置いておきたい。
参考資料と、この記事での位置づけ
- Marcus-Newhall, A., Pedersen, W. C., Carlson, M., & Miller, N.(2000)Displaced Aggression Is Alive and Well: A Meta-Analytic Review(置き換え攻撃についてのメタ分析)。米国の心理学研究者による原著論文。『Journal of Personality and Social Psychology(人格・社会心理学の学術誌)』78巻4号、670–689頁。怒りの対象と別の相手への攻撃を考えるために参照し、特定の個人の意図や、動物への行為を証明する資料とはしていない。
- Jennifer J. Freyd(ジェニファー・J・フレイド/米国・オレゴン大学の心理学名誉教授)によるDARVOの解説。責任を問われた後の否認・攻撃・立場の逆転という概念を参照した。用語を当てはめるだけで、個別の出来事の真偽や責任が決まるわけではない。
本文の長年の経験は僕自身の証言であり、隠蔽や責任転嫁が重なる仕組みについての説明は、そこからの僕の考察を含んでいる。研究の直接の結果、僕の経験、僕の考えは、それぞれの範囲を分けて読んでいただきたい。
参考文献・外部リンク
- 01. 原著論文(英語・PDF) https://www.aggression-irlab.com/wp-content/uploads/2019/08/DisplacedAggressionMeta-analysis2000.pdf
- 02. 本人による定義 https://www.jjfreyd.com/darvo
- 03. 『静かなる償い(罪悪感を手放す方法)』 https://www.amazon.co.jp/dp/B0BM9N6Y94
- 04. 「これが自分だ」と思っていた価値観は、恐怖から取り込んだものかもしれない――恐怖への同一化と自己理解 https://sayonara-monster.com/archives/13670
- 05. 恐怖と自己理解についての、僕とAIの対話 https://sayonara-monster.com/archives/13673
- 06. 「嫌なことは寝て忘れればいい」は、実は心にとって不健全な場合もある https://sayonara-monster.com/archives/13686


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