これまでに何度も書いてきましたが、僕は子供の頃に傷害事件で逮捕されて少年院送致となりました。最初は一般短期処遇(半年くらいで出れるはず)でしたが、心にも沢山の問題を抱えていた当時の僕は、二十歳までに死ねばいいや……という思いで生き急いでいたため、貴重な半年を少年院で過ごすよりも、逃走をして自分のやりたいようにやった方がいいという気持ちもあり、逃走をしました。
学校も行っていなかったことや、三度の飯よりシンナー、という感じの中毒、依存。そして小さい心からの迷信的、宗教的な環境で、僕は、理性もまともに育っていない子供でした。そのため、少年院から逃走をしようとしていた雪がチラつき始めた11月頃、長野の少年院から逃走をして、少年院のパジャマとサンダルで山の中を彷徨いながら、横浜まで歩いて帰れると思っていました。寒さに対しても、「そんなもん、走ってりゃ暖かくなるだろ」なんて本気で考えていました。
そして逃走後、運よく人の助けが沢山あったので(他人や地元の友達と昔の友達)、無事、逃走生活を1ヶ月ほど送ることができたのですが、もしその助けがなく山に入っていたら、多分死んでいたと思います。そんな無知で、理性もまともに育っていなかった僕は、前記したようにずっと生き急いでいました。自分の命は二十歳まで。そんな短い限りある命を急いで終えようとするかの投げやりな生き方をしていたので、悪いことも平気で出来ていました。逃走中は、邪魔をされるのであれば最後の手段として、人を刺し殺してでも逃げてやると決めていました。生きれば生きるほど、深い悲しみの中に堕ちていき、逮捕される少し前までは、絶望感の中、当時の彼女だけが唯一の心の支えで、信じることができる存在でした。その頃を思い出す曲が下記です。1998年6月10日にリリースされた曲。この2ヶ月後くらいに逮捕されました。
この曲の歌詞の中に、「黒か白かわからないまま」という部分があるのですが、当時の僕の心になぜかその部分が刺さっていたのですが、僕はその歌詞の部分に、何が黒で、何が白かわからない。つまり後から自己認識や自己理解を深めたことでわかってきたのですが、機能不全家族の中で、白を黒と言い、黒を白だとすり替える家族たちの中での心の苦しみが刺激されていたフレーズだったのです。悪くないものを悪く言われて扱われて、価値があるものを無価値だと扱われる。そんな環境で育ってきたことによる心の苦しみに対し、その歌詞が刺さっていたのでした。僕はこの曲をリピートしながら、思考もできない足りない頭で、ぼんやりとしたぐるぐる思考(反芻思考)を繰り返しては、シンナーと深い変性意識状態で体験する幻覚世界に逃避していました。そんな自分でも理解できていない無意識の自分のこと、心理的な問題を、たまたま聴いた曲の歌詞が刺激をし、意識に上がりそうになることは意外とよくあることなのです。つまり音楽は、心の問題に気づくきっかけになり得るってことです。当時の足りない頭では処理ができなかったということ。
当時17歳、この曲をよく聴いていて、シンナー中毒、週2回の暴走族の集会、暴走族の先輩と遊んだりしながら、そんな僕を陰で事実とは異なる見方、嘘の見方で悪く見る大人たちが多く、心がどんどん荒んでいました。子供なりの抵抗だったのです。この嘘つき野郎どもが。お前らなんかに染まってたまるかと。そして大人を信じることができず、他人は敵だと思っていたので、他人に対して酷いことをすることも、何の罪悪感もなしにできました。誰だってそうなります。あなたを人間扱いもせず、汚い嘘で封じ込める人間たちが、どんどんひどい事をしてきたとしたら、あなたはそんな相手を敵視するはずです。ただそれだけのことです。
昨今では、連続強盗、指示役と実行役、黒幕などがいますけど、それは現代のやり方であって、一昔前は、上の人間が下に、「ひったくりをして金を持ってこい」と指示して、実行役(現役暴走族や非行少年)にひったくりをやらせていました。とある巨大暴走族なんて、16くらいの人間を無理矢理その暴走族に入れて、その名前で守られる代わりに、ひったくりとかをやらせて金を吸い上げていました。しかもそのつながりは一生切れないとか、面倒な関係です。
そんな暴走族と関わっていたMは、お年寄りからひったくりをして、そのお年寄りが植物人間になってしまった事件を起こしました。僕の嫌いだったMという後輩(ぶっ飛ばしたらすぐ親戚のヤクザを出しくるやつ)がお年寄りをやったのですが、僕は腐っていながらも、そういった汚い犯罪はしませんでした。悪いなりにもプライドがあり、お年寄り、子供、動物に危害を加える奴や、強姦をする奴は腐っている。という考えを持っていて、僕はそういったことはしませんでしたが、当時、家でもご飯が食べられず、僕のような人間は真っ当に働くこともできなかったため、恐喝をしてご飯を食べていました。
そして自分で行くのが面倒になったので、後輩を使って「恐喝をしてこい」と行かせて、取ったお金を半分ずつにしていました。周りの大人たちとの軋轢の中で、僕も徐々に腐り出していたのです。笑顔も消え、顔つきも変わり、当時の暴走族特有の顔つきや目つきに変わり始めていました。そのうち、後輩が「取れませんでした」と帰ってくることが増えてきたので、「テメェこのやろう、もう一回行ってこいよ」と行かせたり、金属バット持ってって軽く引っ叩いて取ってこいよとエスカレートしていました。
その後、逮捕されたのですが、もし逮捕されなかったら、金属バットで顔面引っ叩いて取って来いと言っていたでしょう。それが悪化したら、脚を軽く刺してこいよ、などと言ったかもしれません。本当ひどい話ですね。当時は、やることは昨今、世間を騒がした強盗の指示役と実行役より小さいですが、方向性は似ていますよね。下にやらせて金を取るって。卑怯者のやることです。しかし更生後、僕はこんなこともできない人間になれました。心からやりたくないって思えたのです。逮捕され、少年院に行って、その後の少年院逃走、そして戻ってからの移送後の少年院の中で、最初は捻くれていい加減な生活をしていたのですが、心から心配してくれる先生の信念に負けて、僕は心変わりして、「更生したい」と思えるようになったのです。それから、別人のように少年院生活を頑張りました。子供は、心から信じることができる大人に出会ったときに、その大人が示す道を、恐る恐る歩み始めるのです。僕にとってはそれが少年院生活でした。
そんな生活の中で、思い出の一つとして残っているものが、少年院の駅伝大会です。更生したいと思うまでの少年院生活は規則を破ってばかりで、何度も単独室に閉じ込められていました。そんな少年院でも投げやりだった僕が、みるみる変わり、先生から信頼されるまでになり、少年院入る前の重度のシンナー中毒で体力に自信がなかったからこそ、敢えて体育係を頑張ってみたり、体育のO先生に認めてもらえることが嬉しくて、自分なりに率先垂範で努力をしようと思い、駅伝大会でもみんなの代表で走ってみたりして、進級できないクズだった成績も、先生から信頼されるほどの成績に上がり、一番嬉しかったのは、僕が信じていた、厳しく簡単には人を認めないO先生がみんなの前で、「菅原のように、お前らも頑張れよ」というようなことを言ってくれたことですね(後でO先生からの手紙も紹介)。僕の変化と頑張りをずっと見て、支えてくれていた先生の一人です。その頃の駅伝大会の写真がありますので、ご紹介します。
精神的健康になるには?心の健康を保つコツ: 自己認識からの王道!少年院の中の健全な生活で分かったこと(ChatGPT4.0) Kindle版に掲載したものですので、もしかしたら見たことがあるかもしれませんが。

上記の右の走っているのが、少年院の中での僕です。
下記も読んでください。Kindle本に書いたことです。
僕が入っていた少年院では駅伝大会がありました。これは全員が走るわけではなく、立候補をしてみんなから選ばれた人だけが走るものでした。
少年院の中で3つの寮に分かれているのですが、1つの寮に常時20名から30名ほど在院していて、1つの寮から6人ずつ選ばれてリレー形式で競うものでした。
その為、体力や足の速さに自信のある人、目立ちたい人、プレッシャーを楽しむ人などが立候補をしました。
少年院という環境ですので、プレッシャーも大きく、下手なことをしてしまうと、人によっては、少年院生活のその後の人間関係も壊れて、出院するまで嫌な思いをする場合もある環境ですので、消極的になってしまう人が多かったです。
このようなプレッシャーのある駅伝大会への立候補ですが、当時の僕は少年院の中で「更生したい」という気持ちを強く持ち始めていたので、後記しますが、投げやりだった少年院生活が一変し、積極的に生活をするようにしていたので、駅伝大会も自分からやりたいと手を挙げ、僕の良い変化や成長を支えてくれていた先生や院生が選んでくれて、僕が走ることになりました。
3キロをゆっくりではなく全力で走ることは結構きつかったけど、僕を信じてくれていた先生や院生(寮生)たちのお陰で、3キロ全力で走り切ることが出来ました。
13歳から学校に行っておらず、少年院に入るまで運動もしていなかったので体力もなく、少年院に入る直前まで重度のシンナー中毒で身体も衰えてボロボロで痩せていたので、そこからのこの変化、成長は、少年院に入る前の自分と比べると大きな成長でした。3キロ休まず全力疾走しました。 1.5キロを超えるとかなりキツくなり、途中、無意識になり、かなりキツくなったけど、「必ず最後まで走るぞ」と思い、走り切りました。その時の写真が掲載された学院通信があったので後でご紹介します。
精神的健康になるには?心の健康を保つコツ: 自己認識からの王道!少年院の中の健全な生活で分かったこと(ChatGPT4.0) Kindle版より

3キロ全力で走り切るのは、例えるならどんな職業やスポーツで、どんなレベルの人ですか?



3キロを全力で走り切ることは、非常に高い持久力とスピードを必要とする運動です。これを職業やスポーツのレベルで例えると、以下のようなイメージになります:
1. 陸上競技の中距離ランナー
競技レベル: 高校や大学の陸上部に所属している選手以上、特に中距離走(1500mや5000m)に特化しているアスリート。
理由: 3キロは「中距離」と「長距離」の間に位置する距離で、ペース配分が難しく、高いスピードと持久力のバランスが必要。
2. サッカー選手(プロレベル)
競技レベル: トップリーグやプロ選手。
理由: サッカー選手は試合中、短いダッシュを繰り返すだけでなく、試合全体で10キロ以上走ることもあります。全力で3キロを走るパフォーマンスは試合中のスタミナとダッシュ力を示す。
3. 軍人や消防士(訓練済みの職業)
職業レベル: 軍事訓練を受けた兵士や、レスキューに従事する消防士。
理由: 彼らは過酷な状況で長時間走ったり、装備をつけたままの全力疾走を求められることがあり、体力が非常に高い。
4. トライアスロン選手(中級〜上級レベル)
競技レベル: 年間レースに複数参加する競技者。
理由: トライアスロンではランニングが最後の種目となり、体力の限界に挑むため、3キロを全力で走りきるような持久力と精神力が必要。
レベル感としての目安
一般人: 3キロを全力で走りきるのは非常に困難で、多くの場合、ペースを維持できず失速します。
アマチュアランナー: 練習している人なら可能ですが、タイムはプロと比べて劣ります(12分〜15分程度)。
プロ選手: 陸上競技のエリート選手なら8分〜9分程度で走破可能。
要点として、3キロを全力で走り切れるレベルの人は、競技スポーツにおいて競争力を持つか、特定の職業で日常的に高い体力を要求される人々です。
タイムは忘れましたが、タイム的にはアマチュアランナーくらいだったと思いますが、当時の僕にとっての3キロ全力は、かなりきつかった記憶があります。
もともと体力のない重度の薬物中毒でタバコも吸っていた弱った非行少年が、3キロを全力で走り切れるほど成長できたのは、健全な道へ裏切ることなく導いてくれた先生のお陰だと、今でも思っています。当時の僕にとっても、少年院で体力がついてきてはいたけど、3キロをゆっくりではなく全力で走るのはキツかったです。キツかったけど、ものすごく達成感もあったし、自信にもなり、生まれて初めて「悪いこと以外で認められたという感じ」がして気分が良かったです。当時の僕にとっての一般世界は、嘘つきの集まりでした。そして少年院は正直者の大人たちがいる場所でした。だから心休まる場所だったのです。
下記は少年院に入る少し前の、シンナー中毒で痩せていた頃ですが、、、、神奈川県の有名暴走族に入っていた頃です。当時は今とは全く違い厳しい時代だったので、暴走族も厳しい世界でした。たった半年程度の期間でしたけど、僕が知っているだけで数人死んでいます。子供にとっては厳しい世界でしたね。今の時代からはあまり想像できないものではないかなと思います。
モザイクなしは「子供の頃、死ぬかと思った話・・・。暴力団員が金属バットを振り回していて…。: この話から学べる大切な記憶のお話と、暴走族洗脳の構造と過去の心の癒し(ChatGPT4.0) 非行・更生 Kindle版」に掲載しています。


ここから1年ちょいで、下記のように健全に変わったのですから、自分でもすごいなって思います。


やっぱ人間は変わるためには本気にならないといけませんね!
当時の17歳〜18歳の僕も、前記したように、二十歳までに死ねばいいや……という思いで生き急いでいたため、貴重な半年を少年院で過ごすよりも、逃走をして自分のやりたいようにやった方がいいという気持ちもあり、逃走をしました。つまり子供なりに本気だったのです。理不尽で腐敗が起こっている支配の中、自分なりの正しさを心の片隅に持ち続けていて、信じられるものを追い求め、彷徨いながら、それだけは守っていたのです。だから当時の二十歳までに死ねばいいやという生き急ぐ生き方は、ある種の、魂の防衛でもあったのです。理解が難しいと思いますが。
逃走中は、邪魔するなら本当に最後の手段だけど、刺し殺してでも逃げてやるよと思ったり、それ以外も、他人や大人の言いなりにならないように生きて、できるだけ「自分の心の声に従って生きていた10代」だったのです。だから僕には、よくある、少年院を早く出るために真面目に更生するフリをするっていうのが出来ず、当時の僕からしたらそういう人間は好きじゃありませんでした。いい子ぶって少年院の中でチクリ魔になって(教官も賢いので、部屋に一人はチクリ魔を配置させておくことで、規則を破らせないようにしている)、10ヶ月ほどで出院する人間がいましたけど、興味ありませんでした。それよりも、少年院の中で暴れたり、先生に殴りかかったり、本気で生きている人間を見ているときに、生きている実感がありました。
本来なら、2年くらいになりそうだった僕が、13ヶ月間で出院できたのは奇跡です。逃走はかなり厳しい扱いになるので、通常あり得ない3級からスタートします。1級上で出院。さらに最初の半年は、規則を破って投げやりな生活をしていたので、13ヶ月間で出院できるような生活態度じゃなかったのですが、残りの半年くらいの別人かのような変化と、努力、笑顔で生活を楽しむようになり、そして教官からの信頼を獲得し、なんとか仮退院を許可されました。
ふと思った、「子供時代の思い出――少年院の駅伝大会」について書いてみました。
そんな子供時代だったのに、まさか今の歳まで生きているとは、当時の僕からは想像もできなかったことです。二十歳までに死ねばいいやという絶望を抱えていたからか、10代の頃は交通事故を三度も経験しています。そんな絶望を何がかき消したか?それが「少年院での希望」です。希望が絶望を打ち破るのです。希望を他人に与える人間こそが本物だと、僕は思います。
人生はどこでどのように心変わりするかわかりませんし、振り返ってみれば、全てが一つのストーリーになっていて、全てに意味があるとわかります。どんな苦しみも、悲しみも、絶望も、全て、自分の心の成長に寄与していました。人生は金や名誉よりも、もっと自分の心の奥深い部分に大切なものが眠っているものです。その大切なものを、呼び起こし、それを磨いたり、育てたりして、内なる自分との信頼を深めていくことが、必ず訪れる人生の最後の時の「安らか」に繋がるのだと僕は確信しています。つまり本当の意味での「安らかな死」は、生きている間にどれだけ自己信頼を深めることが、深い意味で出来たかだと考えています。それができると、心の奥底からの安心が生まれます。それが心の底に基礎として浸透し、安らかな眠りに繋がる。そう思います。
がんで他界した母に、このことを少しだけですが伝えることができて、部分的にでも伝えられたことは、不幸中の幸いというのか、うまくいかない家族でしたけど、心の中の自分を大切にすることを母に伝えられたことは、本当に良かったです。母は捨てられた子でした。自分を大切にすることが難しい人間でした。だから自分を育てようとせず生きていました。そんな人間が死の間際で、自分の親になる。その言葉を繰り返し唱えていました。サヨナラ・モンスターで伝えていることの一部を、僕は母に繰り返し伝えていました。それが少し伝わったのです。自分を信じることができず宗教依存だった母に、自分を信じること、自分を大切にすることを伝え続けた結果、はじめてかもしれないと思われるのですが、母の心が外側ではなく内側に向けて、内側に「信」を向け始めたのです。それができないと、神仏にただ縋りつこうとし、心はより不安定になります。自分自身を心の拠り所にしてはじめて、人の心は安定するのです。
そして、話は変わりますが、、、人生の中で最も大切なこと、それは与えるよりも、与えろということ。この大切なことに関することを、前記した下記のO先生、、、
一番嬉しかったのは、僕が信じていた、厳しく簡単には人を認めないO先生がみんなの前で、「菅原のように、お前らも頑張れよ」というようなことを言ってくれたことですね。
1、他人からの嘘をついた否認に慣れていた子供時代
2、「1」に対し、敵視していた
3、「1」と「2」により、他人からの承認なんて興味なかった
4、嘘つきではない真っ当な人間からの承認が嬉しかった少年院時代
誠実な人間からの承認に対し、僕は特別な価値を感じました。
このO先生からの手紙に書かれていました。少年院から出院後、心が折れそうだった頃にM先生とO先生に手紙を書いたのですが、その時の返事です。M先生からの返事の手紙は別のところでご紹介しています。この記事では気合いの塊のような人間に見えたO先生から手紙をご紹介します。
左の画像から読んでください。






どうでしょうか。人それぞれ感じることや思うことが違うと思いますが、僕にとってあの13ヶ月間は、苦しみと悲しみと絶望、そして勇気と信念と、希望、物事を正しく見れる大人たちの中で人間扱いされることで、本気になって生きることができた貴重な時間でした。だから今も、色濃く記憶に残っています。人間の記憶は、このように強い情動を伴うものが残るものです。
決して弱音を吐くことのなかった体育のO先生が、手紙の中で弱音を吐きそうな時に、少年院で出会ったみんな(僕ら)の顔を思い出す、と書いています。少年院での教官として働き、数々の宝物を手に入れることが出来たと。こうやって自分のことを書いたフリ?をしながら(フリではなく本当にきついのだと思うけど)僕に勇気づけをしてくれているんですから、人格も素晴らしい人間です。家に帰るのが夜の11時12時で寝る時間もあまりない中、手紙の返事もしてくれて、かつ深い意味のある大切なことを教えてくれる。本物の教官ですね。
これは2001年ですから、この時のO先生は多分31歳くらいだったと思います。31歳という若さで、人間としてもしっかりしていて、本当の素晴らしい人たちは表には出て目立とうとするのではなく、あまり知られていないところにいるものです。有名になろうとする人間とは、自分でも気づかない蜘蛛の巣にかかり、どこかで歪んでしまい、それを補正して生きるので、嘘や歪みが増えやすいものです。だから僕は、有名になるということに興味がないのです。これについて「有名を餌に、釣ったものを根こそぎ食らう蜘蛛たちの支配」という言葉の意味を深く理解した人間だけが、僕の言っている意味を深く理解できます。それがわからない人は、思う存分、嫌になるまで人生勉強をすればいいです。しかし「しがらみ」は厄介なもので、おそらくは解放されないでしょうけど、、、。
話は戻りますが、O先生はすごいですね。こっそり僕に勇気づけをしつつ、人間が幸せになるために最も大切なことである道を教えてくれています。人間は自分が幸せになろうとするほどうまくいかないもので、他人を幸せにしよう、与えようとして生きるからこそ幸せになれます。それを31歳くらいのO先生は、僕に教えてくれていました。僕が手紙を出したということは、おそらく、限界なのだろうと察してくれたのだと思います。その上で、長い目で見て、幸せになるために最も大事なことを伝えてくれています。流石、本物の法務教官です。教官は腐った人間も少なくありません。そんな中、珍しいほど人間味があり、人格も素晴らしい人たちが集まっていたのが、当時の僕が入っていた少年院です。魚は頭から腐ると言いますが、当時の少年院の院長が素晴らしい人間だったので、その下もその影響で育っていたのだと思います。素晴らしい連携プレーで更生を促していた珍しい少年院だったのに、なぜかその後、バラバラにされてしまったそうで、そこは残念ですが、、、。
O先生の手紙にも書かれていますが、決してお金では手に入れられない最高の宝物を、人の支えになれる自分を感じた時に身につけることができると書かれています。素晴らしい言葉だと思いました。あの頃の僕に一番足りないこと、そして必要でやらなければいけなかったことを的確に示唆してくれています。
心の中に、こんなものを残してくれたことに深く感謝しています。もし、少年院でこの経験がなかったら、当時の僕は絶対に元の道に戻っていたはずです。もっと悪くなって、心が荒んで、腐り、人生そのものが終わっていたことでしょう。
少年院に入る前、絶望、苦しみ、悲しみ、それを隠して強がって生きていて、投げやりになり、最初の少年院からも逃走したあの頃の僕は、心の中で「信じられるものがほしい」と願っていたのでしょう。その願いのために、必死にもがいて、探し続けていたのだと思います。それが無意識のレベルで腑に落ちて、無意識の力によって、自分が願った場所に導かれていった。それが最後に辿り着いたあの少年院だったのです。
僕が求めていた「信じられるもの」は表の一般的な世界にはありませんでした。裏から横に逸れた、狭く暗い道に入っていった先に、それがありました。ほとんどの人が知らないところ、そこに、本当の「信じられるもの」がありました。世の中には”見せかけのもの”がうじゃうじゃしています。本物は決して表に出ることなく、人知れず、一般からは見えない場所に存在しているのです。それを追い求めることで、それに近づくことができます。
もしあなたが今、過去の僕のように「信じられるものがほしい」と願っているのなら、それを本気で探してみてください。きっと見つかるでしょう。それが見つかるまでの過程で、たくさん傷つき、苦しみ、絶望するでしょう。それでもそれを追い求めることで、それは、あなたの前に現れます。長い間の試練を経て、「よく頑張りました」とでも言われているかのように、それが現れます。その過程における心理的な成長が、自己信頼を育み、外側に追い求めていた「信じられるもの」が「内に宿る」のです。それがうちに宿ると、不安や迷いが減り、心の平穏が得られます。これ、とても大事なことです。
子供時代の僕に対し、一方的に心から心配してくれる大人がいました。
少年院での最初の半年ではM先生が心から心配してくれました。それに関する曲をAIで作成しました。


そしてM先生の心からの心配で心変わりした僕は、どんどん変わりました。そして次の寮に移り、次の寮で僕を支えてくれたのが、O先生でした。最初は嫌いでした。うるさく、厳しく、気合いの塊、軍人気取りかこのやろうなんて最初は思いましたけど、僕が間違っていました。そういった人ほど、心から心配してくれているのです。O先生は、厳しさの中に優しさを隠している人間でした。
そんな厳しさがあるところに、本当に信じられるものがあります。それを見させてもらった経験があるので、僕自身も「信じられるものとは何か」を少しだけ学ぶことができました。信じるもののために腐敗に染まらずに生きていた大人たちがいたことに対し、あの頃の僕の視点からも理解できるようになり、深く感謝しています。
あなたはあなた自身を心の拠り所にしましょう。
人生は必ず終わりが訪れます。最期の時に、あなたが与える側としてあなた自身と繋がっているからこそ「安らかさ」に繋がるのです。
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