苦しい時こそ成長するチャンス。自分が自分を救うチャンス。自分を救うというのは、自分の中にある「恐怖へ同一化したことによって受け入れた他者の感情」を捨てることです。

苦しかった。辛かった。悲しかった。自殺も考えた。死ぬほど悔しかった。気が狂いそうだった。沢山の苦しみを味わった。だから出来るはず。自分が自分の親になり自分がして欲しかったことを自分に与えてあげること。待ってても来ない。自分が自分に与えてあげれば最短で手に入ります。時間はまだある。

私も過去は、苦しくて、辛くて、悲しくて、誰にも言えず、死ぬほど悔しく、長い時間、気が狂いそうな闇の中をさ迷っていました。だけど、この苦しさは「実は幻か?」というほど「混乱状態」にありました。何故なら、子供のころから他をすべて捨てて宗教の熱心な信者であることこそが最高だという教えで育っていたので自分がありませんでした。自分の命よりも宗教が大事だということです。「何かあったら自分の命よりも○○(宗教の物)を守るんだぞ」と。心の奥に徹底して刷り込まれていくのです。カルトのような思想が。

だから、自分が苦しい時「それはない」「お前は苦しくない」そう封じ込められていたので、自分が苦しい時、それは苦しくないのか?悲しい時、これは悲しくないのか?涙が出ている時、これは涙じゃないのか。やっていないことが既にやった前提になっている。何が黒で何が白かわからないほど精神的に追い詰められていたこともありました。そして行き場のない破壊的な感情を抑えることが出来ず、動物に八つ当たりをして酷いことをした過去もあります。

もう、家にもどこにも居場所はない。そんな17歳のころ、現実から逃げるために毎日シンナーを吸うようになりました。それは自分への究極の裏切りでした。何故なら、私は中学1年のころから周りでシンナーを吸っている人がたくさんいたのですが、先輩などに勧められても「シンナーだけは死んでも吸わない」そう決めていたからです。だけど、気が狂いそうな中、17歳のころ自分との約束を裏切ったのです。

どんなに苦しくても「親や兄弟は本当は優しくていつか戻る」みたいなことが根底にあったから、待っていたのだと思います。いつか、温かい家族になれる日が来ると。そして、少年院から出た後に「親をもう一度信じてみよう」と信じたことがキッカケで「今までの恨みだ!」といわんばかりに洗脳されていきました。10年以上たち、大きな話が実は騙されていたこともわかったのと同時に親の知人(恐らく親の異常性を親に気づかせようとしていた)のあることがキッカケで私は目が覚め始めました。

目が覚めた時に色々な本を読み漁っていくと、悉く「美徳による支配」に当てはまり、私は真実を知りました。もう何度も何度も自殺を考えました。25歳の時に考えた時とは違い、結局、怖くて決心出来ませんでした。自殺を考えると真っ暗闇の中に自分も無いような感じで堕ちていくような寂しさと絶望。その時は「今までは何だったんだ」と。文章では語りつくせないほどの苦しみでした。

だけど、その「文章では語りつくせないほどの苦しみ」が「成長するチャンス」であり「自分が自分を救うチャンス」だったのです。私は、それまで「美徳による支配」の中で生きていた。それはつまり「美徳による支配」は自分自身のものでもあったからです。私の中にも腐れたものが溢れるようにあったのです。類は友を呼ぶ。その「美徳による支配」を行う家族の中にいるということは、これからも「美徳による支配」をする自分であるということなんです。心は、信じると感染します。だから「美徳による支配」では信じさせようとするのです。信じさせると洗脳が容易になるからです。

だから私は脱出してから「美徳による支配」そして「異常な家族関係」であったかを知りました。自分が「人間らしさ」を忘れていたことにも気が付きました。平気で人や動物を傷つけて、それなのに、それさえも何も感じない。麻痺していたのです。まるで悪魔です。悪魔のような心である自分に気が付いたのです。そう、私は「美徳による支配」に負けて屈した。だから感染して心の奥では80%くらい仲間になっていたのでしょう。

そして大切な人や大切な動物を傷つているのに自覚もない。無自覚で平気で人を傷つける愚か者である自分に気づきました。それから何度も何度も「申し訳ない」「本当に申し訳ない」と涙が溢れてくる日々でした。自分が「美徳による支配」を受けるということは自分が「美徳による支配」をしているからなんです。自分が「美徳による支配」をしないのなら、親からの「美徳による支配」であっても受けない。させない。これが出来ます。それでも親が「美徳による支配」をしてくるのなら天涯孤独になろうが縁を切ったっていいんです。

ふざけるな。二度と天涯孤独にするぞ的な脅しには屈しないぞ。と。「美徳による支配」は実に巧妙だから経験しないとその力の凄さはわかりません。「美徳による支配」は無差別殺人を行う者も作ることも不可能ではないでしょう。それほど強力な支配が出来る場合もあるのです。

だから私は「美徳による支配」という闇から抜け出していきたい。そう心から思いました。「二度と染まるか」と。例え殺されてももう二度と染まらない。そう思って心の中で親や兄弟を捨てました。親とか兄弟として見るのではなく1人の人間として見ています。だから自分を自分で救うことが出来ました。

もう一度繰り返します。

苦しかった。辛かった。悲しかった。自殺も考えた。死ぬほど悔しかった。気が狂いそうだった。沢山の苦しみを味わった。だから出来るはず。自分が自分の親になり自分がして欲しかったことを自分に与えてあげること。待ってても来ない。自分が自分に与えてあげれば最短で手に入ります。時間はまだある。

自分が自分の親になるということは、自分のやってきたことをしっかり見据えることでもあります。無自覚でやっている平気で人や動物を傷つけていることに気づくこと。虐待者ほど虐待を軽く見ます。勘違いしているのです。鈍感であることが強いことだと。本当の強さは繊細であることです。繊細な心で身近な人や動物の涙に気づくこと。それが強さです。

私はこの歌のタイトルのように「人間失格」でした。

自分がして欲しかったことを自分に与えてあげることで自分が成長していきます。心が成長してくると自分が虐待者であることがわかってきます。人は誰もが被害者でもあり加害者でもあります。そして広い意味で誰もが虐待者でもあります。そんな自分に気が付くと変わることが出てきます。

自分を変える時間、自分を救う時間は、まだあります。生きている限り時間は使えます。

自分を救うというのは、自分の中にある「恐怖へ同一化したことによって受け入れた他者の感情」を捨てることです。

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6年もの集大成:サヨナラ・モンスター

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