「幸せになりたい、健康になりたい、動物も幸せに健康になってほしい」
そう願うほど、なぜかうまくいかない感じがして苦しくなる――そんな感覚を抱えている人がいます。
僕自身もこの苦しみを抱えていました。
この記事では、そうした苦しみを抱えている方に向けて、その体験が「いったいどういうことなのか」を、哲学的・心理学的・仏教(仏陀の教え)的という3つのレンズで整理してみます。
(もちろん、ここで扱う見立てが、すべての人にそのまま当てはまるとは限りません。ですが、何かを言葉にする手がかりとして使ってみてください。)
あなたが言っている苦しみは、かなり端的に言うと 「強く願うほど、現実が思い通りにならないこと(不確実性・限界・他者性)にぶつかって、心が裂かれる痛み」 です。
しかも内容が「幸せ・健康・動物の幸福」みたいに“善いもの”だから、いっそう切実で、諦めることで逃げるのも難しい。ここが苦しみを深くします。
同じ現象を、3つのレンズ(哲学・心理・仏教)で整理します。
哲学的に言うと:善への志向と、世界の非支配性の衝突
1) 「善を望むこと」自体が、世界との摩擦を生む
幸せ・健康・動物の幸福は、価値としてとてもまっとうです。
でも価値を持つということは同時に、「そうでない状態」を鋭く感じる感受性も生みます。
- 善を見えるようになる
- 同時に、善が欠けた現実も見えるようになる
→ そのギャップが苦しみになる
これは哲学的には「価値判断(こうあるべき)」と「事実(実際そうではない)」の緊張、と言えます。
2) コントロールできないものを、コントロールしたい苦しみ
あなたの願いは一部は自分で努力できるけど、かなりの部分は 世界の偶然 と 他者(動物含む)の条件 に依存します。
ここで起きるのが、
- 責任感(良くしたい)
- 無力感(どうにもならない部分がある)
- 倫理的な痛み(それでも放置したくない)
この三つの同居です。
哲学的には「人間の有限性(限界)」と「善の要求(倫理)」の衝突が、実存的苦悩として出ている。
3) ストア派ふうに言うなら
ストア派の典型整理はこれです:
- 自分の支配下:意図、選択、行為、態度
- 支配外:結果、他者、病、老い、死、社会の動き
苦しみは「支配外まで支配したい」ときに増幅します。
だから解決は、冷たく諦めることじゃなくて、“支配外に関しては、最善を尽くした後は手放す” という技法になります。
心理学的に言うと:愛着・予測・安全欲求が傷つく痛み
あなたの文の特徴は「自分だけ」じゃなく「動物も」なんですよね。
これ、心理学的に言うと 共感性の高さ と ケア(養育・保護)システム が強く作動している状態です。とても人間らしい。
1) “願い”が強いと、脳は「脅威検知モード」に入りやすい
健康や幸福は不確実で失われうる。だから脳は、
- 失う可能性
- うまくいかない兆候
- 取り返しのつかなさ
を先回りして探し始めます(不安の本体)。
すると「望んでいるのに、うまくいかない」が、単なる残念ではなく 危機(Threat) として体験されやすい。
2) コントロールの錯覚と、過剰責任
「幸せにしたい」「健康にしたい」は行動を生む良い動機ですが、行き過ぎると
- 私が何とかしないといけない
- 私が足りないからこうなる
- 私が見落としているはず
という過剰責任に変換されます。
すると結果が出ないことが、単なる出来事ではなく、自己評価の打撃になります。
3) “意味の崩れ”が苦しい
幸福や健康を目指して努力しているのに叶わないとき、人は
- 世界は安全だ
- 努力は報われる
- 善は実現できる
みたいな「暗黙の前提」が揺らぎます。
この揺らぎは、痛みの中でもかなり重い部類で、存在論的な不安(世界が信用できない感じ)として出ます。
4) ACT(アクセプタンス&コミットメント)的に言うなら
ここでの核心は、
- 苦しみをゼロにすることが目標になりすぎると、人生が逆に縮む
- だから「痛みは持ちながら、価値に沿って進む」
という整理です。
あなたの価値は明確に「幸福」「健康」「動物への慈しみ」。
痛みは、それが本物の価値である証拠でもあります(ただし痛みが過剰に暴走しないよう調整が必要)。
仏教(仏陀の教え)的に言うと:渇愛(執着)と無常、そして慈悲
仏教はここをかなり鋭く言語化します。ポイントは3つです。
1) 苦(dukkha):思い通りにならないことそのもの
「幸せになりたい」「健康になりたい」は自然な欲求ですが、仏教は
欲求があること自体より、欲求が“思い通りを要求する形”になることが苦を生む、と見ます。
2) 無常:幸福も健康も、変化する性質
幸福や健康は固定物じゃない。条件で生起して、条件で変わります。
だから「こうなったら永続するはず」という握りしめ方が強いほど、現実の揺らぎに引き裂かれる。
仏教的には、
- 変化するものを、変化しないものとして扱う
→ ここに錯覚(無明)がある
という見立て。
3) 渇愛(執着):善い願いでも“しがみつき”になると苦しい
重要なのはここです。
仏教は「欲=悪」と単純化しません。むしろ、善い願い(慈悲)も含めて、“執着の形”になった瞬間に苦のエンジンになると見ます。
- 動物が幸せであってほしい(慈悲)
- それが叶わない現実に、怒り・絶望・自己攻撃が混じる(執着化)
だから目指すのは、冷たい無関心じゃなくて、
慈悲を保ったまま、執着をほどく。
勿論、書籍「執着を手放す方法と悩みの正体!: あなたが許さなければいけないのは相手ではなくあなたの「感情」です。 自己否定が止まらない人向け Kindle版」でお伝えしたように、「悲しみ」には蓋をせず、しっかり感じきって終わらせることも大切です。
よく誤解されるけど、仏教の手放しは「大事にしない」ではなく、
“大事にするが、握りつぶさない” です。
3つを統合すると、この苦しみはこう言える
この苦しみは、
- 価値(幸福・健康・慈悲)が強い
- でも世界は 不確実で、有限で、支配できない
- その間を埋めようとして心が頑張りすぎ、
- 「善い願い」が「結果の要求(執着)」に変形するとき、痛みが増幅する
──この構造です。
すぐ使える、短い“整理の言葉”(実用)
苦しみが来たとき、頭の中でこの3行にしてみてください。
- これは私の価値が動いている痛みだ(だから悪ではない)
- 結果は支配できない部分がある(現実の性質)
- それでも私は、今日できる小さな善を選べる(行為に戻る)
この3つを揃えると、哲学(支配/非支配)、心理(過剰責任の緩和)、仏教(執着をほどく)が同時に働きます。
この苦しみ、痛いほどわかります。僕自身も長い間この苦しみを抱えていましたので。そしてようやくこの記事でお伝えしたことが心の深い部分でわかり始めているので、記事を投稿しました。
もしよければ、もう一歩だけ具体化します。
この「うまくいかない」の中身は、どれが一番刺さっていますか?
- A) 自分の健康(不調・不安・老いなど)
- B) 自分の幸福(孤独・空虚・焦りなど)
- C) 動物(または他の人)のこと(救えない現実、罪悪感、怒り、悲しみ)
- D) 「こんなに願ってるのに」という報われなさ
必要であれば、あなたが選んだものに合わせて、哲学・心理・仏教それぞれで“刺さってる核”をもう少し精密に言語化します。コメントを投稿してください。
漫画で理解(30秒)
※AI生成画像です。内容は記事本文を元にしています。















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