「正直者はバカを見る?」それとも「正直者はバカをみない?」…。これって、あなたはどちらだと思いますか。僕の考える答えですが「途中においてはバカを見るけど、最後には正直者はバカをみない」が正しいと思っています。
正直者が馬鹿を見るというのは、狡賢い者が中心となっている乱れた環境や世の中においては正直者がバカをみやすいものです。ですが、そんな狡賢い者が中心となって乱れている環境や世の中でも正直に生きることが出来れば、その時はバカを見るかもしれないけど、最後には良かったと思えるはずだと僕は考えています。
自分に正直に生きるということは本当の自分を大切にするということ。その過程でバカを見ることはあると思います。しかし、それを曲げずに生きていけば自分で自分を裏切らなかったのですから「深く透き通った自信」に繋がるものです。
そして、正直にやっていてもバカをみる…と感じてしまうのは、自分が正直な”つもり”でも「自分に嘘をついている」からバカを見る場合もあります。自分を欺き、自分に嘘をついて、自分が正直者のつもりになっている場合もあるのです。
「正直」というのは本当に難しいことです。正直だけでは生きていけないのが世の中です。正直でいれば狡賢い者が試すかのように寄ってきて巧みに欺いてこようとすることもあります。それほど難しい正直に生きるということは苦難を乗り越え、酸いも甘いも嚙み分けることが出来るように成長した先に本当の正直さがあるものです。
自分では正直なつもりでも、狡賢い者の仕掛けによって自分がバカを見るのなら、それはまだまだ成長の必要のある正直さ(”つもり”のレベル)だと思います。本当の正直さは狡賢い者の仕掛けなどにも引っ掛からない知恵を含んだ高貴な正直さだと僕は考えています。
狡賢い者が中心となっている乱れた環境や世の中においては確かに「正直者が馬鹿を見る」ものです。「鵜呑みにする正直さ」はバカを見ますが「鵜呑みにしない正直さ」はバカを見ません。この2つの違いは「知恵」があるかないかです。知恵のある正直さが本当の正直だと僕は思います。
「鵜呑みにする正直さ」に隠れているものは「依存的な支配」と「依存」です。逆に「鵜呑みにしない正直さ」の裏に隠れているのは「温かい支配」と「精神的な自立」です。
大半の人は長い物には巻かれよ的に狡賢い者のほうに染まっていきやすいものです。それが楽だからです。しかし、そんな中、一部の人は正直に生きようとするのです。至る所にある洗脳にも流されずに自分の道を歩むのです。そこに「価値(個人的に勝手にそう感じるもの)」があると僕は思っています。
「目的」をしっかり持っている人は、至る所にある洗脳によって流されることは少ない。例え流される時があっても「流される習慣」になるまで流され続けることは無いのです。無意識の目的はそれほど強いものです。
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