色々な記憶が蘇ってくる。
9歳の頃、母に、手を持ってもらって一回転して遊んでもらったこと。みんな、次私〜、次は俺だ、なんて母の取り合いをしていたこと。
貧乏だった頃、6歳、全部1円玉で、妹が飲むマミーを買って来てと言われて買いに行って、買いに行ってありがとうって言われて、妹に一緒に飲ませたこと。
家出をしていた13歳の時、父がいないときにこっそり家に帰って、父に内緒でご飯を食べさせてもらったこと。怒られるから早く行きなさいと守ってくれていた。
13歳の時、一緒にラーメンを食べに行ったこと。この記憶はモヤがかかっている。
9歳とのとき、ファミコンのソフトを買ってくれると言い、気合入れて一緒に買いに行ったこと。月に一回買ってあげるねと言ってくれたこと。
7歳、貧乏だった頃、母が兄弟の誰かの誕生日に、「ケーキだよ」と冗談を言い、ケーキを買うお金がないから、100円くらいの、キャベツ太郎みたいなお菓子をくれて、確か妹だったかな? 「わぁケーキだ♪」なんて喜んで、みんなで幸せを感じていたこと。
あと、貧乏してお金がないから、片栗粉に砂糖入れておやつだよなんて出されて、他の家のおやつと違うとか言って笑っていたこと。
5歳か6歳の時、不動産会社の社長だった父が事業に失敗し、住んでいた家の電気が止まり、みんなで暗闇の中、ろうそくに火をつけて、笑って楽しかったこと。
7歳か8歳くらいの時、以前父が大きく長期的に騙されてしまった結果、トラブルにより、命の危険があったため夜逃げをして、暴力団組織に追われ、日本中、あちこち旅行して映画みたいだねなんて言って楽しかったこと。旅館でシーツを敷き直したときに母の邪魔をみんなでして、母は「おだってんじゃないよ!ゲンコするよ」と、笑って、怒った真似をしてゲンコツはるよなんていっていたこと。おだつと言うのは北海道弁で調子にのるなと言う意味だそうです。
9歳かな? みんなで苦しみを乗り越えようねと、その時母が信じていたお経をみんなで休み休み、8時間くらいだったかな唱えて達成感を感じたこと。そして頭を撫でてもらったこと。
6歳の頃だったかな、13日の金曜日とキョンシーの映画を見ていたら怖くなってみんなで母に抱きついていたこと。
振り返ってみたら、いつも母は笑顔なことが多かった。笑顔で父を元気付けていたのだと思う。
そして徐々に機能不全家庭になっていきました。今ならわかる、親は一生懸命子供を守りながら生きていたのです。帰る場所がない2人が懸命に生きていたのです。父は家族を幸せにしようとしていたけど、組織ぐるみで騙されてしまい、大変なことになり、それでも家には持ち込まないよう、夫婦で支え合いながら子供を守っていたのです。子供に影響が出ないよう必死に生きていた。そして家では、不安だったはずの母が、いつも笑顔で子供たちを不安にさせないようにしてくれていました。ここに、親の愛情を感じる。
姉から見せてもらった母の、写真貼ってあるやつに、母が書いた文字が「笑顔」「つらいけど笑顔」「笑顔があれば生きていける」「今を生きよう」と書かれていた。それを見たときに、「そっか、母は辛くても笑顔でいようと、生きてきたんだな」と。小さい頃、ずっと笑顔だったのは、きっと、つらいけど子供に心配かけないよう、つらさを見せないようにしてくれていたんだなと思った。だから子供たちも、貧乏を楽しんで、電気がつかないことも楽しめていたんだと思う。それは母の愛情ある笑顔のお陰だと思う。このことを伝えられないことが残念です。
親の気持ちが分からず、いつまでも自分の気持ちをわかって欲しいと、自分のことしか考えられない僕自身の問題だったのです。それをずっと持って、引きずって、親の本当の姿を知ろうとしていなかったのです。
9歳から親との対立が始まり、時間はかかったけど、良い方に向かえたことはよかったです。ただ、母もたくさん苦しんできました。その心をもっと、楽にさせてあげたかった。それが出来ない事が、苦しい。いなくなってから気づくなんて自分は愚かな人間だなと思う。
コメント