過去に書いた記事を修正しました。この記事もしっかり読んでおくことをおすすめします。
僕は、無宗教なので宗教的な神や仏、悪魔は信じていない。悪魔などは実在はしないのです。実在しているのなら誰かがその尻尾を掴んで捕まえて動画を取ることが出来ます。悪魔は実在しないものであり「潜在意識レベルの情報」なのです。
悪魔は実在はしない(客観的に存在していない)
悪魔は客観的に存在しているわけではないけど、人の心に棲みつくことがあります。「人の心に棲みつく」ということが先ほどお伝えした「潜在意識レベルの情報」ということです。客観的に存在しているのなら誰かが動画撮影に成功していなければおかしいのです。誰もが見えて、初めて「悪魔は実在する」、となるのです。しかし、誰も客観的に存在しているところを見ていない。
悪魔の正体は潜在意識レベルの情報
悪霊も悪魔も、潜在意識レベルの情報です。言い換えれば、「働き」や「法則」のようなものです。仏教では悪魔は煩悩のことでもあると捉えられているとのこと。
悪魔は、仏教では仏道を邪魔する悪神を意味し、煩悩のことであるとも捉えられる。
引用元:悪魔 – Wikipedia
煩悩とは、心をかき乱す心の働き、心の汚れ、妄念、欲望などのことです。煩悩まみれに生きている人とコミュニケーションを取ると、心がかき乱されることがあります。それは自分自身も煩悩にまみれているからですが、人は他者(環境)からの影響を受ける生き物です。ですから、他者の悪影響を受けて、自分の心が乱れることがあります。
このような煩悩(潜在意識レベルの情報)が増え、煩悩にまみれて、煩悩のまとまりが肥大化していくと、その悪影響を受けることになります。つまり、悪魔や悪霊には色々と種類がありますが、それらは全て、積み重ねた、繰り返された潜在意識レベルの情報なのです。潜在意識レベルの情報ですから客観的に存在している証拠を取ることなど出来ません。
悪魔の正体は、「自分自身の心の中に棲みついている煩悩まみれ系の情報」なのです。
「犠牲心」が悪魔を産み出している
犠牲とは、何らかの目的を達成するために、何かを捧げることです。お金のために良心を捧げたり、自分が助かりたいがために子供を捧げたり、悪魔崇拝をして子供を生贄に捧げたり、自分の心の安定を保つために動物の命を捧げたり、こういった犠牲が、自らの心に悪魔を産み出しているのです。勿論、自分で。
なぜ犠牲を産み出すか?
それは、先ほどお伝えしたように「煩悩にまみれている」からです。煩悩の根源は三毒と呼ばれていて「貪欲(とんよく)」「瞋恚(しんに)」「愚痴(ぐち)」です。
「貪欲(とんよく)」必要以上に欲し、貪る(むさぼる)心
「瞋恚(しんに)」怒りの心
「愚痴(ぐち)」愚かで無知な心
はい。この煩悩の根源である三毒からわかるよう、上記のような者は、「問題解決」をしません。
まず、必要以上に貪る時点で、正しく問題解決が出来ていないことがわかります。正しい問題解決をしている人ならば、必要以上に貪ることが問題を大きくしたり、増やすことを知っています。ですから問題解決の大切さを知っていれば貪欲になりません。部屋の掃除をしながら部屋を散らかして汚し、汚しながら掃除をする人などいませんよね。それと同じようなこと。
次に、怒りの心。怒りは人を支配する道具だったり、自分の弱さを隠すためだったり、防衛の最後の手段だったり、つまり、怒りの心は無理をしている証拠です。無理を頻繁にしなければいけない心は問題解決をしてこなかったから問題が山積みになっています。問題が山積みになっているから些細なことで怒るのです。問題が山積みになっているということは、過去、煩悩のまみれていて、やるべきことをやってこなかったのです。
次に、愚痴です。僕も愚痴をこぼしますが、これは愚かで無知だから愚痴をこぼすのです。その愚痴を言って問題が解決されるか?されません。愚痴を言っている者をみればわかります。その愚痴を相手に聞かせて、相手の心をかき乱し、悪影響を与え、愚痴の効果を狙っているような者もいますので。愚痴によって他人のやる気を削ぎ、愚痴で誰かと誰かをぶつけさせたり。非常に愚かで無知だから愚痴だらけになるのです。愚痴は非生産的で問題解決になりません。愚かな方法で人を支配し操作する手口が愚痴です。
このように問題解決をしない生き方。これが犠牲を必要とするのです。必要以上に貪った分(貪欲)。無理をした分(瞋恚)愚かな方法で人を支配し操作した分(愚痴)。この分だけ穴埋めをしなければいけなくなり、それを「犠牲」で埋めるのです。「他者犠牲」や「自己犠牲」です。
犠牲の穴埋めをしなければいけなくなる
犠牲を生み出した者は、何れ犠牲の穴埋めをしなければいけなくなる。また犠牲を使えば次はより多くの穴埋めが必要になる。犠牲とは借金のようなものだから。その先に「悪魔の働き」が待っている。人はそれを「因果応報」と呼ぶの時もあるでしょう。
これはどういうことというと、まず、因果応報とは「人は良い行いをすれば良い報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある」ということです。しかし、自分の「行い」 をすべて正確に自覚している人はいません。つまり無自覚の言動、行いが自覚のないまま報いを生じさせている部分もあるのです。
「こんなつもりじゃなかったのに!!」というのがそれです。本人はそんなつもりじゃなくてもその結果は自らの言動、行いによって報いとして結果が出てきます。だけど、この点と点が繋がらないと「自分の行いの結果だと理解できない」のです。すると人は「別のものの所為(せい)」の意識が芽生えるのです。
自分に起きた不幸を、親の所為にしてみたり、相手の所為にしてみたり、それでも誰かの所為にしたいのに出来ない場合は、霊の所為にしたりします。
そして、不幸を生み出してしまう自分の言動、行いに気がつかないままその言動行いを繰り返していくことで「不幸の蓄積」が起こるのです。この不幸の蓄積は「潜在意識(無意識)」の「深いところに貯蓄」されています。その不幸の貯蓄が大きすぎる時に感じる理解の限度を超えた悪いもの。人はそれを「悪魔」と呼ぶのです。
その「悪魔」は自らが自らの中に生み出して創造した産物であると理解できないまま悪魔のしっぽを捕まえようとします。それは自分の影を踏んで捕まえようとして追いかけているのにいつまでも自分の影を踏めないでもがいている状態なのです。
なので、逆に良いものを「潜在意識(無意識)」の「深いところに貯蓄」していけばいいのです。自分や他の人が喜ぶことを増やして、誰かが笑顔になることを増やして「一日一善」を増やしていけば自分も周囲も幸せになるということです。
悪魔の正体?それは犠牲を生み出す自分自身
犠牲を生み出す自分自身が悪魔なのです。悪魔は客観的に存在しているわけではない。自分の内側にある自分の煩悩や弱さなのです。
悪魔との契約は、必ず代償を支払わなければいけません。悪魔との契約というのは、「煩悩にまみれて問題解決を放棄してプロセスを省略して結果を手に入れようとする自分の汚い手口」です。これは色々な人を見てきてわかったことです。つまり、「悪魔との契約」は「泥棒な自分」だということです。やるべきことをことやらないで結果を手に入れる泥棒。このプロセスの省略が悪魔との契約になっているのです。自覚がなくても。
この、やるべきことをやらないでプロセスを省き、結果だけをズルして手に入れてきた分だけ、自分の心の中に悪魔が棲みつくのです。
「犠牲とは、何らかの目的を達成するために、何かを捧げること」です。
例えば、楽して結果だけを泥棒のように手に入れるという目的を達成するために、人を騙し、詐欺をして、兄弟のものやお金を盗み、盗んだことを隠蔽するために涙や弱さを武器にして、相手を悪者扱いをして、すり替える。相手はお金や物を盗まれて挙句の果てには悪人扱いして心を封じ込められる。そして本当の悪人が被害者の仮面を被りながら楽して結果だけを泥棒のように手に入れた。
これこそが、悪魔との契約です。いずれ、代償を支払わないといけない日が来ます。必ず。なぜなら自分自身が犠牲を使って結果を手に入れて、自分で自分の心に悪魔を棲みつかせたのだから。悪魔との契約から逃れることは出来ません。生贄に捧げた罪は非常に重い。
自分で蒔いた種は自分で刈り取る日が来ます。その兆候が出始めた時に「本当の反省と清算」が出来なければ、成るように成るだけです。犠牲を産み出してきた者ほど客観的に存在していない悪魔に恐怖を抱いている。僕は悪魔を信じていない。そして悪魔への恐怖もない。なぜなら、自分の心に悪魔を育てていないから。
無償の愛なんてあり得ない夢物語
「無償の愛」という名の美徳に心を支配されているといつまでも妄想から抜け出すことは出来ません。「親」を経験した者ならば「愛」の難しさを知っているでしょう。それを知ったなら「無償の愛なんてあり得ない夢物語」だということがわかります。現実の努力を知らない人の夢物語なのです。無償は泥棒。
「無償の愛」を求める心は、「媚びへつらい」や「心理的な奴隷」と深い関係があります。逆に、媚びへつらいが減り、精神的に自立してくると無償の愛は悪いことだとわかってきます。有償の愛であることが大切なことなのです。
本当の無償の愛をくれているのは、子供、動物たち、自然だと思います。
汚い大人たちが、「無償の愛」という言葉を支配の道具に使っているのです。(美徳による支配)
なぜ、客観的に存在していない「悪魔」を恐れ、悪魔を探し、必死に尻尾を掴もうとしている者がいるか。その根底にあるのは「悪魔への恐怖」です。「悪魔への恐怖」の正体は「煩悩にまみれた自分を知らなすぎることへの恐怖」なのです。大切なことは自分を知ることです。悪魔の正体は自分自身ですから。
心に悪魔が棲みついている者がスケープゴートを創り出す
こういった自分自身の内側の悪と向き合えないことから逃げる時に、人は「無償の愛」などを求めるのです。「ほら!与えてよ!早く!」と。それを求めすぎるが故に「犠牲」を生み出してしますのです。そして犠牲には蓋をして無かったことにする。それを「スケープゴート」というのです。
実際に、悪魔崇拝において幼い子供の命が生贄として捧げられます。全ては煩悩から始まったことです。煩悩が心に悪魔を棲みつかせ、そしてそれが集団の間で集合的なものになる。つまり集合的無意識にまで煩悩を行き渡らせてしまった。それが悪魔崇拝です。罪のない子供たちが生贄になるのは煩悩が原因。
子供と動物と自然を汚しているのは大人
「無償の愛」「自己犠牲」「あなたのためなのよ」「みんな仲良く」どれもあり得ない妄想です。この妄想を強要することで、いじめは増え、虐待も増え、犯罪までも増えている。いい加減、支配され、心理的な奴隷にされていることに気づいていない人は、早くに気づいたほうが良いです。子供を汚すのは大人
https://twitter.com/moral88887777/status/934259100975742976このような、「被害者と加害者をすり替える」といった者が大人にいるから、子供たちも心がおかしくなってしまうのです。そして子供はある程度は大人の汚さに染まらないと生きられない。そうして心が折れて恐怖へ同一化していく。それが人生です。そこから自分を取り戻すのが人生の醍醐味なわけです。
https://sougok.net/archives/2137こんな大人だっていますし。子供の純粋な心は、こういった大人たちの中で染まっていくのです。染まるというのは「洗脳される」ということ。そこから悩み、苦しみ、そして自分の力で人生を取り戻していく。勇気をもって、愛を育て。それが人生の醍醐味でしょう。素晴らしいこと。
「みんな仲良く」という美徳の言葉で、無理矢理、距離感を縮めるからいじめが起こりやすくなるのです。本来は「みんな仲良くしなくていいんだよ、嫌いな人がいて当たり前だから。だけど相手の嫌がることをしないように離れようね」と教えたほうが健全です。いじめも起きにくくなる。
離れさせず、距離感を縮めて、そして競争させる。こんなことをするから虐めも増えるのです。そして、この教育を受けた子も、大人になり、似たようなことをする。親になれば子供を虐待する。このくだらない支配から抜け出すまで、ループの中で生きることになる。それも大切な人生勉強です。
モラル・ハラスメントも同じです。モラル・ハラスメントの世界に心を置いているうちは、いつまでも被害者でもあり加害者でもあるということ。加害者でもなく被害者でもない自分になることが幸せになるために必要なことです。被害者は加害者でもあり、加害者は被害者でもあり、これは頻繁にすり替わる。
「害毒」は「煩悩」の「産物」
今回は被害者、だけど別の時には加害者、頻繁にすり替わりながら「害」を使いながら何かを得ている人もいる。大事なことは、この「害」から離れること。「害」に心が引き寄せられるのは「煩悩」が強いからです。バランスを取れば良い。「害」は「煩悩」の「産物」なので。
「害」は嫌い!
「煩悩」は大好き!
だから煩悩にまみれながら害を受けたくない!
↑
これは「無理な相談」なのです。
何故か?
繰り返しますが、
「害」は「煩悩」の「産物」だから。
「毒」も。
「害毒」が「煩悩」の「産物」
「害毒」は「煩悩」の「産物」
「毒親」は「煩悩」にまみれている。
だから、「毒親」は他人にも「毒」を撒き、「加害」をするのです。
なので、大事なことは他人のことじゃない。他人が煩悩まみれになるもの害を撒くのも、他人の自由です。最も大事なことは「自分がどうするのか」です。害を受けたくないのなら「嘘と矛盾に満ちた煩悩まみれのモラルハラスメント界から離れる」ことではないでしょうか。「離れる」ことこそが必要なこと。
「害との縁」を断ち切れ!
被害とは、害を被ること。
加害は、害を加えること。
つまり、「害に縁ある自分」を出来るだけ「害に縁のない自分」へと変えることこそが、今後も被害に遭わないために大切なことなのです。自分の中にある自分でも気づいていない「害との縁」、これを断ち切らないといけない。
では、どうしたら「害との縁」を断ち切ることが出来るのか。その答えをお伝えします。それは「利心」を持って「自分を大切にすること」です。あなたがあなたの力で自分を救い出して大切にして、そして幸せになっていけば良いのです。幸せになれば害との縁が自然と切れていきます。
いじめも、犯罪も、ハラスメントもつらく苦しいことではありますが、これは本当の自分の道に戻るための人生勉強でもあるのです。視点を変えれば、以前よりも成長している自分に気づけます。マイナスはプラスを教えてくれています。
「この世界は悪に満ちている…」という妄想
「この世界は悪に満ちている…」という妄想を抱いている人たちが変わることはとても難しい。その闇が晴れたら如何にこの世界が素晴らしいか見えてきます。自分が如何にこの世界にふさわしくないほど未熟であったかもわかります。自分で気づかない部分に、感謝すべきこと、恩恵、ありがたいことがある。
客観的に存在しない悪魔が存在すると思い込むのは、自分以外の「所為(せい)」にする最終結末なのです。確かに世界には「悪」に見えることはたくさんある。それ以上に「善」がある。そこを見れなくなっている自分の心に問題があるのです。「この世界は悪に満ちている…」と精神が病んでいくのも、自分が「善」を見る勇気がないからです。
ありがたいこと、感謝すべきこと、嬉しいこと、身の回りにたくさんあります。まだ気づいていないこともたくさんあります。
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