「いじめ」のカラクリ!いじめ問題などの最大の責任者が、いじめを巧妙に生み出している!?

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「いじめ」とは日本人の美徳に反するものではなく、正反対に「優しさ」や「思いやり」や「耐えること」という日本人の美徳それ自体がつくりだしたものなのである。

引用元:うるさい日本の私 (角川文庫)

早稲田大学理工学部名誉教授、加藤諦三さんの本に書いてたように、いじめには「美徳によるモラルハラスメント」が関係している。加藤諦三さん良書からの引用をお読み下さい。

いじめ問題の最大の責任者自身が、モラル・ハラスメントの加害者である可能性があることが議論されることがない。

引用元:モラル・ハラスメントの心理構造 ~見せかけの愛で他人を苦しめる人~kindle版 No.2420/2590より

つまり、私が思っていることは「いじめ問題などの最大の責任者が、いじめを巧妙に生み出している」かもしれないということ。その、いじめ問題などの最大の責任者が意図して生み出しているのか、それとも深刻な心のコンプレックスによって生み出しているのかはわかりません。

いじめ問題…、一向に根本解決しないどころか、ますます巧妙になる”いじめ”不思議になりませんか?

どうか、視点を変えてみてほしい。本当にいじめがなくなってほしいと思っているのかを。加害者を悪として終え、完結しようとして解決できるか?出来ません。加害者にも加害者の言い分があり、納得いかないことがあるからです。その納得を起こさなければ、人によっては命を投げ出してでも、貫こうとします。犯罪者などが信念をもって変わらないでいるのも、どうしても納得できないことがあるからです。

加害行為は確かに悪いこと。それは罪を償い責任をとるべきです。だけど、どうしても腑に落ちないことがある。それが「巧みに仕掛けられたもの」に対してなんです。だけど、それを紐解けない。だから腑に落ちない。

もう一度、以下の引用文をお読み下さい。

「いじめ」とは日本人の美徳に反するものではなく、正反対に「優しさ」や「思いやり」や「耐えること」という日本人の美徳それ自体がつくりだしたものなのである。

引用元:うるさい日本の私 (角川文庫)

「美徳」…。人として立派な心の在り方や行い。

「美徳」を鵜呑みにすると

この「美徳」、実は罠があるんです。「誰にでも優しくあるべきだ」「みんな仲良くすることが大事だ」「耐えることこそ男だ」など、この「美徳」を鵜呑みにするとどうなると思いますか。

そう「誰にでも優しくあるべきだ」「みんな仲良くすることが大事だ」「耐えることこそ男だ」と正反対の人物、つまり「誰にでも優しくしていない人」「みんなと仲良くしない人嫌い」「耐えることをしない者」を許せくなるんです。

「A」…「誰にでも優しくあるべきだ」「みんな仲良くすることが大事だ」「耐えることこそ男だ」を鵜呑みにした人物

「B」…「誰にでも優しくしていない人」「みんなと仲良くしない人嫌い」「耐えることをしない者」

「A」は「B」を許せなくなる。

このように、「美徳」を絶対的なものとして鵜呑みにするところから美徳に反する者を許せなくなるんです。だからネチネチいじめをするようにもなるんです。いじめの加害者や被害者をよく見てほしいのですが、両者、「美徳」を絶対的なものとして鵜呑みにしていたり、自分と正反対のものへの嫌悪などを強く持っていたりします。

それが「衝突」して、「暴力」「いじめ」などに繋がっていってます。そこで加害者を潰しても、また新たな加害者が生まれていくから、いつまでたっても”いたちごっこ”なんです。つまり、上から流れてくる「美徳」を絶対的なものとして鵜呑みにしないことが大事なんです。

だけど、人は「餌」にくいつく性質があるので、自分では「美徳」を絶対的なものとして鵜呑みにしないようにと思っていても、無意識のうちに「餌」とセットで「美徳」を受け取ってしまうのです。それらが変化しながら流れて形を変えて「暴力」「いじめ」などに繋がっている仕組みです。

本当は、誰にでも優しくする必要はない。耐えることも自分がいらないと思えばいらない。「いじめ」は上の不条理を鵜呑みにするから下に流れる。加害者は堅物が多く、被害者は嘘つきが多い。

つまり、いじめのカラクリの1つは、まず、上からの「美徳」を信じ込んで鵜呑みします。引用にあるように「優しさ」や「思いやり」や「耐えること」をよしとする。

あなたは驚くかもしれませんが、加害者は、「耐えること」をよしとしていることが多く、被害者は「優しさ」や「思いやり」を謳う。あとは加害者は、「嘘はついてはならない!」をよしとしていることが多く、被害者は「嘘」を使う。

上の「美徳」を丸ごと信じると、衝突する人間関係になるわけです。

「耐えること」も「優しさ」や「思いやり」も、人間は全員にはできない。それなのに全員に、みんなに、そうあるべきとするから、矛盾が生じて、「嘘」になり、それが、加害者と被害者がぶつかる仕組みになり、力が強いほうが、正反対をいじめるのです。

これが、いじめのカラクリです。

つまり、いじめを減らすには、上の言うことを聞かないこと。自分に正直に生きること。です。それをしないと、いつまでも、いたちごっこになります。上の矛盾や嘘に気づかないまま、鵜呑みにして受け取って、その価値観などが、人と人を「いじめ」という形でぶつけさせるのです。

心当たりありませんか?

学校で「個性を大事に」なんて美徳をぶら下げられたこと。

それを信じるからいじめが生まれるんです。

「個性を大事に」というから、髪の毛染めて、刺しゅう入りの短ラン、ボンタン、履いていったら、帰れと言われたり、スプレーをかけられたり。嘘ばっかです。美徳をぶら下げた嘘は、巧妙な美徳によるモラルハラスメントです。それが、いじめに飛び火しているのです。そして「いじめ」が起こる人たちの周囲に、教育関係、美徳を説くものがいたりすることが多いと個人的には感じています。

つまり、”いじめ”とは「巧妙に踊らされて、餌を投げられ、餌に食いついてしまったが故に、起こり出すもの」というわけです。私自身、過去に人をいじめたことがあります。自分自身が臆病者でダメ人間でした。「美徳」を信じていたから、信じていた「美徳」と正反対の者がどうしても許せない存在でした。

逆に、もっと小さい頃、いじめられたことがあります。転校先の小学校で転校初日がリレーの選手を決める日だったのですが、私がリレーの選手に選ばれることがどうしても許せないという価値観(転校生は目立ってはいけないというようなことを言っていた)を持っている子に、つきまとわれて、鉛筆で刺してきたので、それを防ごうと手を出したら、手のひらに刺さって血が出てきました。その子は「お願いだから先生に言わないで」と言っていたの「私はチクってはいけない!」という価値観を持っていたので黙っていました。

その子は「転校生は目立ってはいけない」というような価値観を、おそらく親などから受け継いでいたんだと思います。想像ですが「新しい場所では大人しくしとかないといけないんだからな」など。それを鵜呑みにしていると、「転校初日にリレーの選手に選ばれること」は「悪」として見えるわけです。

このようにいじめの加害者と被害者では、加害と被害が繋がってしまう価値観を持っていたりします。

カルト宗教の信者が、嫌がらせやいじめをすると言われることがありますが、カルト宗教の信者は熱心な信者であればあるほど、絶対的な価値観や信念を持っています。それを持っていると、それと正反対の者はどうしても許せなくなります。

私は宗教の説く「神」の存在は信じてませんが、それを「神」の存在を深く信じている人に言えば「とんでもない奴」とされることがあります。そこで私が「神を信じている奴は絶対に許さない!」という価値観を持ったらどうなりますか?互いに衝突し合うんです。暴力、いじめ、嫌がらせに繋がっていく可能性も否定は出来ません。

しかし、私が「私は宗教の説く神の存在は信じていませんが、それは、人それぞれ自由なことだと思いますし、宗教の説く神を信じている人を尊重します。正解はないので、自分の道がそれぞれ違っていいと思うんです。ですので、よいことだと思います。」と言えばどうでしょうか?

それでも私に対し宗教の説く神の存在を信じないなんて「とんでもない奴だ!」と言ってくる人は殆どいないと思います。つまり、自分の中から「○○であるべき」という考えを強く持っていることが、いじめに繋がっているというわけです。

私は、過去に親が宗教をやっていたので、日本最大級の宗教を2つ体験しました。そこで感じたのは「Aの宗教」は「群れて面白おかしく楽しく生きる」という感じで「Bの宗教」は「人はヘラヘラしてはいけない。こうあるべきだ!」という男らしい感じでした。だから、これらの宗教の信者は衝突しやすいのです。嫌がらせもあります。互いにぶつかる価値観を持っているから、マイナスな出来事に繋がるんです。

「折伏が大事だ」なんて言葉がありましたが、これって字のごとく「心をへし折って、説き伏せる」ことです。つまり「支配」ですよね。だって相手の自由を許さず、相手の心をへし折ってまで支配しようとするのですから。

互いに違ってもいいということを、認めて受け入れるとよいと私は思います。絶対的な正解はないし、絶対的な正解がないからこそ意味があるんだと思います。

心の深層に眠る"モンスター"と向き合い、真の自分を解放しよう
あなたの心の奥底には、知らず知らずのうちに抱え込んでしまった感情や思考の"モンスター"が潜んでいるかもしれません。『サヨナラ・モンスター』は、そのモンスターと対話し、心の傷を癒し、真の自分を取り戻すための第一歩となる教材です。音楽の力を借りて、自分の心の声に耳を傾け、書くことで深い部分の心理的な問題を解放しましょう。今、この瞬間から、あなたの心の旅をスタートさせ、新しい自分との出会いを実感してください。
この記事を書いた人
菅原隆志43

1980年、北海道に産まれる。保有資格(メンタルケア心理士、アンガーコントロールスペシャリスト・うつ病アドバイザー)中卒(だけどIQ127《日本人の平均は100》)。心理的セルフヘルプの専門家。物心ついた頃から熱心な宗教の信者たちに囲まれて育ち、洗脳的な教育を受ける(宗教2世:脱会済)。5歳まで殆ど喋らない子供だったそうで周囲からは「自閉症(生まれ持った特有の性質)じゃないか」と言われて育ち、数々の心の問題を抱え、生きる希望もなく、13歳から非行に走り、18歳で少年院を逃走し、以後、更生を誓うも、再び薬物中毒となり現実逃避。その後も凡ゆる心の問題(恐怖症、トラウマ、自閉的、強い拘り、パニック発作、強迫観念、強迫行為など)を抱えることになる。親や自分の境遇を恨み、そして、独学と自力で1つ1つ自身の心の問題を解決出来る部分から解決して(書くことによる癒し効果で)心に大きな変化を起こす。それにより幼少期からの潜在意識(無意識)に根を張る宗教の洗脳を自力で解き、恨みさえも克服し感謝の心が芽生える。そして自分の心の良い変化に繋がった情報を発信し続けるようになる。心の問題を抱えた当事者(心の問題、苦しみを直に体験し、影響を受けている個人)だからこそわかることがあり、発信する情報の多くが好評で、お礼の言葉をいただく機会も増える。心の根深い問題の解決、解消に役立つことを伝え続けることで、更に多くの人たちから「心の良い変化に繋がった」「カウンセリングを受けても良い変化がなかったのに、菅原さんの情報(方法)の実践で良い変化が起こりました!」という声を多数いただくことが増えたことを機に、電子書籍出版を開始。こういった表現活動が他者だけでなく自身の心の傷も癒していくこと(成長に繋がること)を体感し、その素晴らしさも含めて情報発信している。

・メンタルケア心理士
(メンタルケア学術学会認定)
・アンガーコントロールスペシャリスト資格
(一般財団法人 日本能力開発推進協会JADP認定)
・うつ病アドバイザー
(一般財団法人 日本能力開発推進協会JADP認定)

【メンタルケア心理士とは?】「メンタルケア心理士」は、「日本学術会議協力学術団体」に指定されている、「メンタルケア学術学会」が認定する資格(公的学会認定資格としての位置づけ)です。他にも、第三者評価機関(生涯学習開発財団・一般財団法人ヘルスケア産業推進財団)からも認定されています。

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