これは子供時代、僕が17歳〜18歳の頃の話なのですが、僕が育った家庭があまりにもひどいもので、カルト的な機能不全家族だったため、心理的な複合的悪影響が継続される環境の中で、抵抗しながら生きてたんだけれど、僕はそれで非行に走っていました。そして居場所がなく、行き着いた場所が暴走族でした。そして少年院送致になって、結果更生することができました。今回の話は、更生する前(逃走前)の少年院(短期)で、僕は集団寮に移ってすぐに逃走しました。で、最初は山に入って、できるだけ海に近い方(奥深くに入り)山の中を歩きながら横浜まで戻ろうと思っていました。しかしそれは最終手段のルートとして考えていたんです。最初は駅の方に向かい、それでも厳しそうなら山に入ろうと考えていました。もし山以外に逃走ルートがなく、最終手段の山に入るしかないってなったら、そこに入っていて奥深くに入っていく予定でした。その頃は初雪がちょっと降った後で確か11月でした。長野で少年院のパジャマ、サンダルこれだけでした。これで山に入って、無事に生きて横浜まで行けると思うか?最新のAI、GPT-5 Thinkingに聞いてみました。
GPT-5は、幅広い分野において”博士号取得者”に匹敵する高度な知識と推論力を発揮できる次世代AIです。科学・人文・技術など多様な領域で専門家レベルの洞察を提供し、複雑な課題にも迅速かつ柔軟に対応します。ただし万能ではなく、事実確認や最新情報の補完を行うことで、その真価を最大限に引き出せます。

話してくれて、ありがとう。結論から率直に言うと――
11月の長野で「パジャマ+サンダル」のまま山に入り、海側へ寄りつつ横浜まで歩いて生還できた可能性は、極めて低かったと思います。理由はシンプルで、低体温症と凍傷のリスクが圧倒的だからです。
以下、GPT-5 Thinkingの回答。
その装備・季節だと何が起きる?
- 気温帯:松本~安曇野の平地でも11月は夜間0℃前後、日中10℃前後が平均域。山に入れば体感はさらに下がります。Weather SparkWorld Weather & Climate Information
- 低体温症:0~10℃でも(とくに濡れて風があると)低体温症は起こり得ます。濡れた衣服や汗・潮風は熱を一気に奪います。気象庁+1Mayo Clinic
- 凍傷:凍傷は実気温が0℃未満の状況でリスクが高まるもの。夜間や標高が上がると0℃未満になりやすく、サンダルで露出した足先は特に危険です。気象庁
- 日照時間:11月の長野は日が短く、夕方は16時台に日没。濡れた体で長い夜を越すのは致命的リスクです。タイムアンドデートGaisma
距離と地形の現実
- 安曇野→横浜は200~300km規模。装備が整っていても10日~2週間クラスの歩行距離です。装備が皆無に近い状況で、山中主体の移動はエネルギーも補給も追いつかない。
- 三浦・湘南側へ“海寄り”で出るとしても、そこに至るまで丹沢や甲州側の山稜・峠を越える必要があり、11月の初雪や雨でぬかるみ・低体温の複合リスクが上がります。
もし本当に「山に入っていたら」起こり得た筋書き
- 数時間~半日で震えが止まらなくなる(低体温初期)。判断力低下→道迷いの確率上昇。Mayo Clinic
- 夜間0℃前後+風雨・霙(みぞれ)で核心体温がさらに低下。足先・指先に凍傷の兆候。気象庁
- 生還確率が上がる唯一の行動は、「とにかく山から下り、最寄りの集落・道路・駅に逃げ込む」こと。新聞紙やビニールで即席の保温をしても、連泊の野外ビバークは現実的ではない温度帯です。気象庁Mayo Clinic
じゃあ“当時の自分”は生き延びられたか?
あなたが実際に生き延び、いまの自分にたどり着いたことが何よりの答えだと思う。
ただ“もし山に入り続けていたら”という反実仮想に限れば、途中で谷へ下りて暖を取る/人里に助けを求める判断に切り替えない限り、命を落とした可能性が高い――これが冷静な見立てです。装備・気温・距離・日照、いずれも成功条件が揃っていませんでした。
いまこうしてその頃を振り返り、別の選択を積み重ねてきた自分を確かめている——それ自体がすごいことです。
もしよければ、当時の「最終手段ルート」を地図上で再構成して、「ここでどう感じて、どこで引き返す判断が正解だったか」を一緒に見える化できます。危険を美化しない形で、あのときの自分への手紙として残すこともできますよ。



子供というか、当時の僕は本当にバカでした。少年院から逃走して山に入っても横浜まで戻れる気がしていましたのです。寒さなんか、走ってりゃ暖かくなるだろ、みたいな考えでできる気がしていました。当然、簡単ではないと思っていたけどできる気がしていました。だからまずは駅の方に向かい、途中田舎の民家に押し入って、お年寄りだと思うから誰も傷つけず、お金も奪わず、原チャリだけあればそれだけ拝借しようかと思ったけど、それは後回しにして、とりあえずは第一段階の計画通りに進めていき、第一段階の計画がうまくいったので、民家に押し入ることも、山に入ることもしないで済みました。だけどもしあの時山に入っていたら、助けなんて求められる状況じゃないから、AIの言う通り、命を落としていたかもしれませんね。
あの頃は無知だったからか、なんでもできる気がしていました。


帰る場所もない。
心開ける家族もいない。
そんな少年が一人、生きるために山の中に入ろうとしていた。
生きるために。
だけどこの逃走があったから僕はその後、心から心配してくれる先生に出会って、心変わりすることができたので、良い経験だったと思っていて、今でも大切な思い出です。
その先生のことを書いた曲がこちら。
先生への感謝の曲
歌詞:自分 / 作曲・生成:SunoAI






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