縦の世界では一生頂点に立つことは出来ない
世の中、上には上がいるものです。自分の下を作り出して上を目指して自分が頂点に立とうと頑張っても、本当の頂点に立つことは不可能です。一時的なお山の大将になっても、次のお山が出てきます。一生、頂点に立つことは出来ないループした世界なのです。それが縦の世界です。
比較をやめて横の世界へ
そうではなく、「自分にも、他の人にも比較のしようのない素晴らしさがある」という視点で見れるようになれば心の状態は縦の世界から横の世界に移行していきます。
僕は、過去に飼ったペット(2匹)に対して、「こっちは可愛いけど、こっちは可愛くない」と思っていました。これが比較の視点です。比較してこっちが可愛いと思い、もう片方は可愛くないと思い込んでいたのです。
しかし、僕の心の状態が縦の世界から横の世界に移行していった時に、ペットに対しての見方もガラッと変わりました。「こっちは可愛いけど、こっちは可愛くない」から「こっちはこんな可愛いところもあるし、こっちにはこんな可愛いところもある」と、それぞれの違いを受け入れることが出来たのです。
この変化はとても嬉しかったです。それまでは動物に対して「可愛くない」という可哀想な見方をしていたのに、どうしてもそれがやめられなかったから嬉しかったのです。
力に依存すると抜け出せなくなる
どんなに裏社会の上のレベルに行っても、今度は更なる上が存在するのです。悪い世界を支配しているのは「力」です。その「力」の魅力に魅了されると、一般を見下し、自分が「特別な存在」に思えます。そして自分たちが強い気持ちになるので、ますます「快」の気持ちで抜け出せなくなります。
求めるほど恐怖が強くなっていく
そして悪い世界ほど仲間意識が強く、その「力」に助けてもらえます。多くのメリットがあり人脈が多ければ多いほど助けになります。するとますます離れることが出来なくなるので、嫌だけど、力は好き。そして「認知的不協和」に陥って自分の認知を歪めていくのです。そうするとますます「欲望」を求めるようになります。そして、ますます恐怖が強くなります。そして、ますます恐怖を隠し力で誤魔化します。そうして抜け出せないしがらみに縛られていくのです。
抜け出したものは攻撃される場合がある
そこから抜け出した者は嘲笑の的になったり、場合によってはハイエナの如く、食われ、とられるモノはとられます。表面がどれだけ優しくても、「おいおい、抜けるなんて許さねぇよ?」となるのです。言語では優しい。だけど非言語的メッセージでは「おいおい、抜けるなんて許さねぇよ?」となるのです。
自分の弱さを思い知らされる
それでも抜けた者は、今度は自分がみじめな気がして、弱い気がして、怖くなる場合もあるのです。自分の弱さを思い知らされるのです。それまでは悪い世界の群れの力で強い気になれていたのです。本当に1人になった時に自分の弱さを知ることになるのです。
自分の弱さを知って自分に負けてしまうと、一度は抜け出したのに、また元の悪い世界に戻るのです。ですから、更生は難しいのです。強烈な劣等コンプレックスと、恐怖と、力の魅力と、欲望、快楽、あらゆる魅力に負けてしまい、戻ってしまいやすいのです。更生とは、とても難しいのです。
悪い世界から抜け出すにはどうすればいいのか
じゃあどうすれば…?
それは、本気になるしかありません。自己分析をして、自分が何に恐怖しているかを見つけることです。気づいている恐怖は大したことありません。問題は気づいていない無意識レベルの恐怖です。
恐怖は、「実は自分で気が付いていない本物の恐怖」があります。その「本当の恐怖」を隠すために、偽の恐怖、二次的な恐怖を自分で作り出し、それを自分で本物だと思い込んでいることがあります。
ですから、自分が何に恐怖しているかを見つけることです。ある人は、特別でなければ愛されない恐怖。またある人は、見捨てられる恐怖。またある人は、孤立する恐怖。理解が出来ないレベルでの組織への恐怖。手口を明らかに出来ない巧妙な力への恐怖。親から愛されない恐怖…。
そういった、隠れた恐怖があるから、普通よりも目立ちたくなったり、悪い世界に憧れて特別になろうとしたりします。特別になれたならその隠れた恐怖が消えるような気がするのです。
普通でいる勇気を持つこと
だからこそ「普通でいる勇気」。これを身に付けるしかありません。
過去に、匿名掲示板で僕に、無価値のような物言いで田舎に住んでいるとか言っている者がいて、汚い誹謗中傷を繰り返した者がいました。
そういう考え自体が、劣等コンプレックスの塊のような者で、必死こいて都会にしがみついて生きるのです。大したところまで上がることも出来ずに。
そして、日々、劣等コンプレックスを肥大化させて、悪循環にはまって、だけど人生満たされなくて、苦しくなるから、食べて、性欲満たして、遊んで、誤魔化すのです。だけど、また虚無感が襲ってくる。それで、また食べて、性欲満たして、遊んで、誤魔化すのです。
僕なんか、この歳になって、「花って綺麗だな(*^_^*)」とか「普通の感覚」を少しずつ手に入れたわけです。
嫌なら堂々と逃げたらいい
以前、あるブログで「クラブいくの嫌だ。だけど断れない。怖い。外人嫌い」と書いている記事を見ました。嫌なのに、繋がりによって、断れない。そうすると、ますます苦しくなる。だから、大事なのは、自分が嫌なら関わらなきゃいいだけです。引越せばいいのです。
冷静に考えたらわかること。クラブに行かない人は悪い人ですか?外人嫌いな人は悪い人ですか?違いますよね。その時の自分の感情に素直に従えばいいのです。そう思うだけの理由がちゃんと自分の中にあるのですから。
しかし、ここで「逃げるのは嫌だ」という考えに心を支配されている人もいます。永久に逃げ続ける為の逃げではなく、自分を大切にするための逃げですから、良いに決まっています。支配者にとって都合の良い考えに支配される必要は無いのです。支配者にとっては逃げてもらっては困りものですよね。人を支配し洗脳し利用してなんぼですから。
本当の自分の気持ちを1つ1つ大切にすること
例え、一人になっても、自分の考えを大事にすればいい。そうすると、徐々に考えが変わってくれば、今まで関わらなかったような人とも仲良くなれるでしょう。本当の自分の気持ちを1つ1つ大切にすること。
特別とは言い換えれば支配者にとって都合の良い駒
一度、「特別」を味わうと、なかなか「普通」には戻れません。それは普通を軽視し、普通の価値を無いと思い、普通でいることを怖がるからです。支配者たちは「普通でいることを悪いこと」のような考えを刷り込みます。そして現状に価値が無いと思わせ、更に「特別」を求めるように仕向けます。特別とは言い換えれば支配者にとって都合の良い「駒」なのです。
駒として動かされていれば自分が不幸になります。ですから、先ほども言ったように「普通でいる勇気」が大事なのです。「普通でいる勇気」を持って、更に生きることを、「更生」と言うのです。
引っ掛けられる恐怖
人は、潜在的に「引っ掛けられる恐怖」を持っていたりします。自分の能力を超えた力により引っ掛けられて、引っ掛かてしまえばもがけばもがくほど雁字搦めになることに無意識のうちに恐怖していることがあります。特に対人恐怖の人はこの「引っ掛けられる恐怖」を持っていたりします。
引っ掛けられる恐怖を克服するには
手口を知ること
引っ掛けられる恐怖を克服するには、まず「手口を知ること」です。その手口を知らないから怖いのです。人は知らないことは怖いけど、知ってしまえば怖くなくなるものです。だから手口を知ればいいのです。手口を知れば「餌」の意味も深く理解できてきます。自分が相手の投げる餌に食いつかなければ、引っかけられることはありません。
悪い世界で手に入れたものは全て置いていくこと
そして悪い世界から抜け出すときには「悪い世界で手に入れたものは全て置いていくこと」が重要です。悪い世界で手に入れたもの(金、名誉、他色々)は、たとえ自分が手に入れたものでも少なからず悪い世界の者たちの恩恵を受けて手に入れたものです。
それを持っていこうとすれば悪い世界の住人に狙われることに繋がる場合があります。そうやって引っ掛けられていく場合もあるのです。
悪い世界で手に入れたものは普通の世界に持ち込まない。これが正しいことです。
覚悟を決めておくこと
そして、抜け出して、最後の最後のどうしょうも無くなった時には最後の手段として相手を殺すくらいの覚悟さえあれば、自分が餌に食いつかなければ、基本、引っかけられることはありません。
つまり、悪い世界から抜け出すにしても、その世界の人たちに誠意を持って誠実な別れ方をすることが大事なのです。媚びるのではなく誠実です。「今まで勉強させていただきました。これからは、次の人生勉強をしていきます。ありがとうございました。」と。その気持ちがあれば、悪い世界の恩恵で手に入れたモノを綺麗に整理して置いていけるはずです。
綺麗に足を洗ってから次に進む
しかし、「餌には食いつきたい。だけど引っかけられたくない。」これでは、無理な話なのです。悪い世界の恩恵で手に入れたモノを疚しい気持ちで次の世界に持っていこうとするならば追いかけられてもそれは自業自得です。
地につけた足をしっかり洗わないと、抜け出せないのです。足を洗わずに、抜け出したら、見えない蜘蛛の巣に、またひっかかります。悪い事に「手を染める」と、手から腕、肩、頭、背中、ケツ、太もも、足。全身に悪いものが伝わって、足に溜まるイメージです。そうして、足が毒に侵され、足が消えるのです。悪の世界に心を奪われ、自らの足で歩くことが出来ないのです。
ですから、幽霊には足が無いと言われるのです。幽霊の世界が実際あるわけじゃありません。それは人の心の状態を表す言葉です。そうなる前に、足の泥や毒を洗い流すことです。
だから、悪い事をやる時は「手を染める」と言い、悪い事をやめる時は「足を洗う」と言う。悪い世界から抜け出すために本当の必要なことは手足を綺麗にすること。それは清算するということです。清算せず更生したつもりになっても何れ引き戻される仕組みです。そう「再犯」ですね。清算をしないものを静かに追いかける働きが「悪魔の働き」です。
悪い世界から普通の世界に戻るには、心の足を洗わなければいけないのです。足は「精神的自立」の象徴、つまり、足は本当の自分という意味でもあります。心の足を洗うということは、他人の感情で生きていたことをやめて、本当の自分として生きるということなのです。本当の自分として生きることが出来れば、更生は成功するのです。
つまり、見えない蜘蛛の巣にひっかかる。そして悪い事に「手を染める」と、手から腕、肩、頭、背中、ケツ、太もも、足。全身に悪いものが伝わって、足に溜まるイメージ。これは「洗脳される」ということでもあるのです。悪の世界に洗脳されるのです。だから足を洗うこと(脱洗脳)が必要になるのです。
記事を読んで、いかがですか。人それぞれ考えは違うので、これは鵜呑みにせず、一つの材料として読んで下さい。僕が、過去に経験したこと、見たこと、言えない事などから、確信している事です。
本当の自分を生きるということは責任を持つということ
何か感じていただけましたでしょうか。
更生は、地にしっかり足をつけて、本当の自分の道を歩き出したときに、過去の悪事の世界は、本当の自分の道を歩き出すために怖くて厳しい世界が嫌になるように背中を押してくれていたのかもしれない…。そう思う場合もあるかも…です。
深い意味で人に罪があるならば「本当の自分を生きないこと」が「罪」です。この罪と言う字を二つに分けます。「目を横にしたもの」に「非(正しくないこと)」と書きます。つまり目を横(顔を横)にして世界を曲げて正しくない見方(解釈)をする(自分以外の感情、価値観で見る)ようになったから苦しむのです。
罪を償うということの1つは「本当の自分を取り戻すこと」です。何故なら本当の自分を取り戻すことを開始出来たら心からの感謝や謝罪、反省が自然に出てくるからです。その道に入ると苦しみます。今まで麻痺していたことが明確になり苦しみます。そこからが本当の更生に近づく道です。
自分の深い傷に気が付けるようになると、他人の痛みもわかるようになってくるのです。そのプロセスの中で自分を傷つけてしまったことに対する「本当に申し訳なかった」という自分への優しさが、後から他人の痛みが分かることに繋がるのです。
本当の自分を生きるということは責任を持つということです。責任は自由です。本当の自分を生きるということは本当の自由になることです。
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