過去のことを思い出してみて、運が良いと思うことを書いてみます。
僕は昔から運が良いのです。どのように運が良いのかと言えば、まず、子供時代3度の交通事故に遭っているのに、僕はほとんど怪我していません。1つ目の事故では友達と原付バイクニケツ(二人乗り)で走っている時に交差点で車に跳ねられ、目撃者によるとかなり高く宙を舞ったとのことで、友達は頭から落ちて意識不明の重体、僕は頭が軽かったのかケツから落ちたとのこと。友達は集中治療室に入り、生死の境を彷徨うほどの大怪我でした。僕は一週間のむち打ちだけでした。かなり運が良いと思います。この頃は、宗教を押し付けてくる親にも反発し、自分の考えを大切にしていました。
あと、僕の知ってた人間(嫌いな人間)で、僕は出来ませんが、彼はひったくり(窃盗、強盗致傷)を繰り返しており、被害者の方が高齢の方でひったくった時に転び、車との事故で植物人間になりました。このような性格の悪い人間は自分と繋がっていないでの運が悪くなるのです。自分と繋がっていない人間は酷いことが出来てしまう。彼は良い少年院に送られず、少年院でケツを掘られ、その後更に捻くれていきました。男の後輩をレイプしていたという噂もありました。僕とは全く違います。彼はレイプも平気でする。僕は死んでもそんな酷いことは出来ない。
どうして、非行に走った人間でも、人間性が全然違うのか? その理由はたくさんありますが、それは性根の問題もありますが、大きな原因の1つは「教育」にあります。教育は良くも悪くも、ある意味洗脳です。少年院は矯正教育という良い洗脳です。学校教育は良い洗脳です。反社会的な人たちの方では悪い洗脳が行われています。カルトも悪い洗脳。言い換えると教育です。どこにでも教育があります。運が良い僕は、子供時代、その県で凶悪だと言われる暴走族(A)に入りましたが、ここ以外にも大きな暴走族(B)や(C)などがありました。特徴としては、下記になります。
暴走族(A)お年寄りと、女には、ほとんど酷いことをしない(薬物、窃盗、傷害、傷害致死)
暴走族(B)お年寄りだろうが、女だろうが、平気で傷つけることがある(薬物、詐欺、強盗、窃盗、傷害、傷害致死、強姦、強盗致傷)
暴走族(C)お年寄りだろうが、女だろうが、平気で傷つけることがある(薬物、詐欺、強盗、窃盗、傷害、傷害致死、強姦、強盗致傷)
必ずというわけではないけど、上記の傾向が強いのです。どうして同じ暴走族でもこのように違いが出てくるのかというと、それが前記した「教育(洗脳)」にあります。では当時の暴走族に対しての「教育者(洗脳者)」は誰だったのか、、、これは基本的には「暴力団」です。暴力団が未来の構成員にするために、予め教育(洗脳)しておくのです。ですから、当時の暴走族には暴力団の考えが、まるで生き霊かのように入り込んでいるのです。それが前記した特徴の違いに表れるのです。
例えば、暴走族(A)にの背後には暴力団(A)がいて、「汚いことはするなよ」という教育をする人もいました。しかし、暴走族(B)の背後にいた暴力団(B)はお年寄りだろうが、女だろうが平気で傷つけ、シャブ漬けにして、酷い目に遭わす人間もいたのです。暴走族(C)の背後や、横にいた暴力団(C)も、ひったくりでも何してでも金をもってこいというやり方だったのです。暴走族(C)に入った人間は、毎週お金を渡すために、ひったくり(窃盗、強盗致傷)を繰り返し、被害者に大怪我をさせたりもしていました。そんな中、僕が入ったところは、お金を持ってこいと言われませんから、ひったくりも要らない、個人的に悪さをしてしまうくらいでした。背後にいた暴力団も、強姦などもしない心ある人間も多かったので、類は友を呼ぶと言うように、性根が腐っていない人間が集まりやすく、そして汚い教育を受けないので、汚い犯罪をしないようになりやすいのです。こういった視点からも、僕は悪い中でも良いほうの縁に恵まれていたのだと思います。オレオレ詐欺なんて汚い真似、死んでもやりたくないし、強姦も死んでも出来ない。こういった心に育ったのも、良い少年院の先生のおかげや、親、昔の腐っていない人間関係の影響だと思っています。それも運が良かったからだと思います。今は、なんの関わりもありません。
あと、今は悪いことなんて一切できないのですが、子供時代(シンナー中毒だった17歳)の時に、家でご飯が食べられなくて、何か食べないといけないので、お金を手に入れるために近所の高校に行き高校生を脅して奪ったお金でご飯を食べていました。その時の、自分でやり続けるのが面倒になってしまい(家で風来のシレンというゲームをやりたかった)、その時に「後輩にやらせよう!」と良いアイデアが閃いたと思ってしまい、暴走族の後輩を呼び出して、僕がやっていたことをやらせてしまいました。そしたらその後輩が「なかなか上手くいかないんですよ」と戻ってくるので、気合いが足りないと説教をして、金属バットを渡し、「生意気なやつは引っ叩いてしまえ」と伝え、「よし、行って来い」と行かせてしまいました。
それからも後輩と一緒に行ったりしていたのですが、ある日、歯向かってきた高校生に頭にきてしまい(僕が悪いのに)、殴ってしまったのです。その相手が中学の時の同級生だったそうで、僕は相手の顔を知らなかったけど、相手は僕を知っていたので、結局、傷害事件で僕は逮捕されました。相手の怪我も顔が少し腫れる程度だったので事件としてはとても軽いものだったのですが、当時僕が入っていた暴走族が、その県で最も凶悪だと言われていて、僕の1つ上の人が別の暴走族の人間が金属バットを持って向かってきた時に、刺して殺めてしまったのです。その事件によって、主犯は少年刑務所、そして多くの人間(暴走族の集会に参加していた人間)が少年院送致となったのですが、僕の場合はその件では何もなかったのですが、この事件によって僕がその暴走族に入っているということがあったので別件(ご飯を食べるために恐喝をして殴ってしまった傷害事件)で逮捕となり、鑑別所に入りました。しかし、「あなたは鑑別だけで出れるよ」と沢山の人から言われていたので、1ヶ月の辛抱だと思っていたら、なんと審判の日に、少年院送致と言い渡されました。
ふざけるなよ…、と怒りが込み上げてきました。なんであんな小さな事件で少年院にまで行かなきゃならないんだと、このやろう、、、そう思いました。確かに俺は悪いことをした。だけど、納得できない、そう思いました。家庭環境も辛くて、居場所もなく、どいつもこいつも大人は俺を追い詰めてくる、そんな気持ちだったのです。そして必ず逃げてやる。その決心を毎日固めていきました。今思うと心苦しいけど、鑑別所で「あなたは悪い人ではないから良い少年院(塀のないところ)に送ってあげたい」と言ってくれた優しい女性(面接官)のことを騙してしまったんです。「自分は、絶対に逃げません。更生して1日も早く出れるよう頑張りますので、塀のないとこに送って欲しい。それが自分のためになると思います」というような話をしました。本当はこういうことは言いたくなかった。だけど、納得できない、絶対に逃げてやる、その思いが面接官を騙してしまいました。これは僕の中で心苦しいものとして残っているものです。
で、塀のない少年院に決まったので、必ず逃げると決心しました。鑑別所で「これが鑑別最後の唐揚げか」なんて思い、決心を固め続けました。鑑別所からの逃走は高い塀もあり鉄格子もあり無理だと判断し、畳をめくって逃げられないか見たり、逃走できないか考えましたが、窓には鉄格子もあり、無理でした。次の逃走チャンスは、移送時だと考えました。鑑別所から少年院に移送する時です。この時は手錠をかけられていますので、逃げても手錠が邪魔で捕まると思ったので、諦めました。次の逃走チャンスは少年院に入り、集団寮に移る前の一週間だと考えましたが、塀のない少年院でしたが、最初の個室は鉄格子もあり、鉄の扉で逃走不可能でした。この期間に教育を受けるわけですが、その時に上手く話して自然を装い、聞き出しながら情報収集しながら、計画を立てました。その時に、その少年院の先生は、家に手紙を書けと言ってきたのですが、「わかるよな?」「こんな良い少年院に来て」と言ってきました。つまり、良いことを書けと、言い換えれば嘘でも良いことを書いて親を安心させろ、そういう強要だったのです。大人を嫌っていた僕は、「このクズが」と思いました。それも逃走に繋がりました。もしこの時点で僕にとっての心ある人間に出会っていたなら、逃走は思いとどまったかもしれません。しかし、この先生の言葉で、更なる強い気持ちが湧いてきました。「最後の手段として、殺してでも逃げてやる」と。そして情報収集しながら、二階(集団寮)の窓には鉄格子がないことを知りました。開放的な少年院で、犯罪傾向が軽い人間が収容されていて約半年の短期処遇なので、逃走はなかなか起こらないところでした。僕は、集団寮に移ったその日が決行する日だ、二階の窓のどこから飛び降りて逃げると決めました。しかし、開放的な少年院ですが、監視されていますから、日中は逃げられません。そこで、就寝後のトイレの窓から逃げようと決めました。見回りは来ますが日中よりは逃げやすいと考えました。たとえ逃げれても、見回りでいなくなったことに気づかれるか、トイレに入ったことをカメラで見ていますから、数分、または10分くらいで出てくるのが遅いと気づかれてしまいますから、すぐ捕まるのです(廊下にカメラがある)。
しかし、僕は運が良すぎるので、チャンスが回ってきました。9時就寝で寝たふりをして、確か1時頃でした。先生の見回り後、少し経ってからトイレに行ったらカメラがあるところの部屋に当直の先生がいないのです。だけどすぐに戻ってくると思ったので、トイレに行き網戸の外し方を検討し、1度部屋に戻りました。網戸は横に開かないようになっていましたが、持ち上げて押すと外れることを確認しました。次2時頃だったと思いますが、またトイレに行きました。トイレに2回も行くと怪しまれるので、もし先生に「何やってるんだ」と言われたら、「少年院に来たばかりで不安とかあって、お腹が痛くなりました」嘘をつこうと思っていました。しかし、そこにいなければいけないはずの先生がいないのです! これはおかしいことです。見回り後の1時頃にもいなかった。2時にもいない。あり得ないことです。つまりその先生は、いい加減な人間で、見回り後、仕事をサボっていたのです(後でサボったことが明らかになった)。おそらく2時間近くサボっていた。
この先生がサボったお陰で、僕は2階から逃走し、ザマーミロこのやろう!と思い、映画を見ているようなワクワクした気分で建物の二階部分の屋根を走り、ジャンプして降りて、一気に走りました。あとは、サボっている先生がいつ気づくかが勝負だったので、兎に角、走りました。原付バイクなどがあれば盗んででも逃げようと思いましたが、そこは山の近くでなんにもないのです。車のライトが見えるたびに、畑などに隠れました。何もなかったら、最悪、誰かの家に立て篭もるか、または、山の中に入り、山奥を歩いて違う県に行けばいいなどと考えていました。当時、雪が降り始めた時期で、僕は少年院のパジャマとサンダルです。あんな山奥に入ったら死んでたんじゃないかって思います。あの時は、なんでも出来るような気がしてしました。
そして走っていると、やっとコンビニを1つ見つけました。田舎のコンビニです。人が誰もいないので、朝までどこかの塀の陰に隠れ待つか、どうするか考えていました。逃げても、朝になれば、全く動けなくなりますので(少年院のパジャマだし、包囲されるから、すぐ捕まる)。なんとか遠くに行かないといけない。そう思い、コンビニに入っていた1台の車。そこから男が出てコンビニに入ったので、よし、こいつだ、こう決めました。出てきたところ話しかけて、上手いことを言って車に乗せてもらい、車の中で賭けに出ました。正直に、理由があって少年院から逃走したと言い、もし敵に回ったら、ボコボコにして金と服を取ってやろうと思ったのですが、その人も昔悪いことを少ししたららしく、気持ちをわかってくれて、とりあえずうちに来なよと家に入れてもらいました。ずっとは無理だけど、1日2日ならという約束で匿ってもらいました。そしてインスタントラーメンを作ってもらって、2万円借りて、あと電話を借りて、彼女に電話をして、逃走したと伝え、N県まで来てと伝えて来てもらいました。
それから1ヶ月間の逃走生活が始まるのですが、その間、何度も捕まりそうな時があったのに、全てすり抜けて、僕の勝ちとなったのです。後からわかったことですが、確か先生が僕が逃走したことに気づいたのが三時頃で、そこから他の職員に連絡して包囲網を貼る訳ですが、その時には僕はもう包囲網の外に行っていたのです。彼らは僕が包囲網の中にいると思っていたのです。僕はその頃、ナオキ君(家に入れてくれた人)の車でその人に家にいたのです。だから運良く逃げ切れたのです。コンビニの外でナオキ君に話しかけた時も、カメラに映らないように店から車が離れた時に車を止めて話しかけたので、警察などがカメラをチェックしたかどうかは聞いていませんが僕を見つけることは出来なかったのです。
そしてN県のM駅は大きい駅なので、直感で、あいつらなら大きい駅に俺がくると考えそうだから、あえて無人駅から電車に乗ろう、そう思ったのですが、それがまた運良く当たったのです。最初だけ警察も捜索していたのですが(逃走後事件を起こしていないから警察は数日で捜索しなくなったらしい)、職員が中心となって探していて、後で分かったことですが、M駅で張り込みをしていたとの事でした。僕は彼女と無人駅から横浜に向かいました。その時も直感で、あの駅とあの駅はいそうだと思い、別の駅で降りたのです。これも後で答え合わせをした時に、職員は僕が直感で危険だと思って避けた駅で張り込みをしていたのです。
そして横浜に戻っても、駅も、バス停も、友達の家も、あちこちに職員がいるので、もう横浜は無理だと思い、北海道まで行ったりしたのですが、横浜にも、北海道にも、探しに来る訳です。運は良かったけど、もう疲れてしまい、自分から連絡して戻りました。多くの大人が18歳(鑑別で誕生日を迎えた)を捕まえることが出来ず、裏をかかれた(相手の作戦を見抜いて出し抜かれた)のです。なぜ、勉強もしていない直感だけの僕に、大の大人の集合知が出し抜かれたのか? それが「直感の方が勝っているから」なのです。直感の方が優れているという研究結果などもありますが、この直感は「意識化されていない無意識の知識」なのです。だから直感、心の声を信じる方が良いと僕は考えています。
細かいことは色々ありますが、全てにおいて運が良かったんです。この時は、自分100%で生きていました。短い間ですが、誰の意見も聞かず、自分の心の声だけに従って生きました。若いから出来たことですが、僕の過去、運が良かった時期は、本当の自分と繋がっている時だったのです。本当の自分の声に従い、行動し、子供ながら命懸けになり、死んでも、逆に、邪魔されたら殺めてでも、それでもやってやる。俺は間違っていない。自分を信じていた時だったのです。そうしたら、運が良いと思うことがたくさんあったのです。他にも運が良いと思うことは色々ありますが、やはり、本当の自分の心の声に従っている時に運が良かったのです。
下記の記事を覚えていますでしょうか? この記事でお伝えした「本当の自分の心の声に従っている時に運が良い」ということと、下記の記事でお伝えした「自己肯定は運が良くなることに繋がっている」というお話、、、これは繋がっているお話なのです。
僕は子供の時に追い詰められていたけど、自分を肯定しました。そして逃走という行動を取り、1ヶ月間、命懸けて生きました。それは「無意識レベルの肯定」だったのです。それによって直感が冴えてきて、まるで何かに守られているかのように運が良かったのです。北海道で、「お前か? 少年院から逃げてきたってガキは」と、チンピラみたいのに占拠された家(友達の家で、友達は逃げてしまった)で絡まれたのですが、その時に「警察呼んだぞ」と言ってきたので、それが本当なら、そこの台所の包丁で刺してやる、そう思った瞬間、「嘘だよごめん」と言ってきて仲良くしてきたのです。これも運が良かったです。もし本当に警察に電話をしていたのなら、僕はその時はなんでもやる気だったので刺して逃げていたでしょう。そういった悪い結果にならずに済むことばかりだったので、僕は少年院逃走中に犯罪に走らずに済んだのです。もし少年院逃走中に1つでも事件を起こしていたら、その後、厳しい少年院(特別少年院等)に行くことになったでしょう。これも運が良いので、1つも事件を起こさずに済んだから、3級への降級(そこは2級下が最初)の罰と、一般長期(約1年)の良い少年院への移送だけで済んだのです。更に、移送後の少年院には珍しく、人間味のある良い先生がたくさんいたのです。他よりも厳しくしていた少年院ですが、それは優しさのある温かい厳しさでした。ここで、人間扱いされて、僕の心が育ったのです。これも運が良かったのです。
逃走者が事件を起こさず、捕まらず、(疲れて自分から戻ったけど)逃げ切れたのはとても珍しいことで、全ては、自分の心の声に従って生きたからです。
この後、少年院から出てから更なる嫌なことだらけに負けて、自分の気持ちがわからなくなり、心の苦しみの時期に入っていきました。このような心の変化を味わった経験から、「自己肯定は運が良くなることに繋がっている」と確信しています。そして大切だと思うことを、「自己肯定感を高める方法」に書いて出版し、Amazonで販売しているのですが、毎日誰かに読まれるようになりました。自分と繋がると運が良くなるのです。その入り口になるのが「自己肯定感を高める」ということです。この本に、少年院のことなどは書いていませんが、本当の自分と繋がっていくための入り口として、良かったら、読んでみてください。
この記事の続きは、いつか少年院をテーマにして書きたいと思っています。すぐには書けませんが、読みたいと思う方は、下記より「読者登録」をしておいて下さい。電子書籍(Kindle本)を出版したらお知らせします。
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