永遠の赤ん坊、甘やかし、溺愛、
その末路が「札幌 すすきの頭部切断事件」であると、僕は考えています。
親族が激白「両親は子どもを溺愛していた」 すすきの切断遺体事件 一家3人全員逮捕
動画の0:50で「初公判では、両親が娘の言うことを否定できない歪な家族関係が明らかになっていました」と言っています。僕が何度も言ってきたこと(歪、不正はやめた方がいい)と深く関係があります。この事件は、「歪な家族関係」も深く関係し、「歪(いびつ)」が生み出したモンスターと言えると思います。歪、不正を縦に書いた字、つまり正しくないことが山ほどある家族関係です。
家庭家族に「正しくないこと」が多ければ多いほど、その家族は狂ってしまいやすいのです。普通に考えればわかりますよね?時計の針に対し正しくないことわざとして1分狂わせたら?それを20回繰り返したら?20分狂います。家族関係も同じです。家族の中で何かに対し正しくないことを誰かがしたらその影響下にある誰かの何かが狂うのです。それが繰り返されたら大きく狂います。このことを重要視せず、狂っていく過程を見ず、事が起こるまで黙っているから「起きてはいけないこと」が起こるべくして起こるのです。
僕が育った家庭環境も歪な家族関係で、父親は娘に対し溺愛的な部分もあったので娘から部分的に心理的操作されていました。今の時代は親が子供を操作するよりも、子供が親を逆に操作しちゃうことが多くなってきているのではないでしょうか。話は戻りますが、つまり娘たちの虚言を鵜呑みにした父親が僕を攻撃するという異常な家族関係があったのです。僕のきょうだいが僕が嫌がることをする。例えば僕のお金を盗むなど。それがバレた時に当然怒られたり、返せと言われたりします。それから無責任に逃げるために堂々と嘘をつくのです。「虐待された!」「殴られた!」と。そして父親に演技と嘘の涙で泣きつくと、父親は溺愛しているようなものですから、「おーよしよし大丈夫か。お父さんがいるからな。」と成人している娘の嘘を鵜呑みにして、僕に対し「お前はあっち行ってろ!!」という感じで怒鳴ってきました。僕も優しすぎた人間だったので、どうしても親のことは殴れず、当時処理できない心の苦しさを呑み込んでいました。当時は、「なんだこのボンクラジジイが(盆暗・ぼんやりしていて物事を正しく見通せない人間)」と思っていました。悪いことをしている娘を叱らず、責任を持たせず、溺愛的に関わるから、その後もどんどん虚言、でっち上げ、詐欺まがいなことをやり続けたのだと思います。彼らの成功体験です。それが基礎だから、他所でも散々虚言で迷惑なことをやりながら被害者ぶっていたのです。加害者なのに被害者になりすますのです。
メサイアコンプレックスの傾向がある親、その承認欲求を利用して虚言で転がす娘たち。嘘が罷り通り、事実確認など一切せず、不正だらけの家族関係。この中で僕は数えきれないほど深く傷ついてきたので、その経験もあるので、嘘、虚言、不正、歪な関係、永遠の赤ん坊、甘やかし、溺愛などに対し、個人的には毛嫌いしている部分もあります。
虚言者は厳しさを嫌う。
間違っていると気づいた方がいい。
「札幌 すすきの頭部切断事件」の父親は精神科医です。精神科医の娘の精神が問題だらけになって解決も出来なかったといういうことは、その精神科医の関わり方、知識、価値観、信念などが、色々と間違っていることの証明のようなものではないでしょうか。日本は2000年以降、道を間違えています。確かに、体罰、ハラスメント、虐待などは、ダメなものはダメです。しかしだからと言って、子供の心の奥に根腐れの部分が起きるような子育てや関わり方、甘やかしはしてはいけないと思います。そんなことをしていると、永遠の赤ん坊が量産され、それが社会に放たれ、その末路が「札幌 すすきの頭部切断事件」のような異常な事件を起こす者や、「詐欺師」を沢山生み出してしまう可能性があると考えています。
人としての強さや本当の優しさは、厳しい環境の中で育つものだと僕は思います。甘やかしの環境は「腐敗」を生み、腐敗が変化し、異常な事件を起こす者に化けたり、詐欺師になったり。最悪死体愛好ネクロフィリアな傾向が出てきたり。「札幌 すすきの頭部切断事件」の容疑者も、死体愛好の傾向が強くあったのではないでしょうか?
異常の原点にあるのは甘やかしだと思います。人格が優れている人間は、表でも裏でも、厳しさを乗り越えて生きてきた人たちだと思います。甘やかされた坊ちゃん嬢ちゃんが、後でとんでもないことをやらかすのです。ネットでも甘ったれた考えの者たちが、誹謗中傷などを正当化して匿名安全地帯から他人を傷つけています。これも甘やかしの末路です。
僕の父親は娘に対し、1度も暴力を振るったことがありません。暴言でさえ殆どありませんでした。ただ父親が仕事のことや、それまでのトラブルなどから家族を守ろうと必死だった頃は、子供達に対し、厳しく当たったことがあります。つまりよその家よりも娘たちに対しては優しい部分が多かった父親だったのです。甘やかし、部分的な溺愛などが見受けられていました。その結果、娘たちは皆、虚言者、無責任者になってしまいました。挙げ句の果てにはありもしない虐待話まで作り、「毎日父親に殴られていた」などと周りに嘘を言ったり、息を吐くかのように嘘を堂々と言うようになりました。嘘が通る成功体験があるためです。そして他人を傷つけ、奪い、悪行を繰り返すくせに、被害者ぶることが上手くなったのです。僕はその中で、虚言、悪役のスケープゴートの立場で(でっち上げが前提にあって悪者扱いされていた)、家族には味方も理解者もいなく、長い間、傷つき続ける人生でした。
僕は健全で、少年院の中で厳しく人間扱いされた経験があったので、それを心の支えにして自分の心を汚さず根の部分を腐らせず生きることが出来たので、家族から離れ、関わりを遮断し、自分で自分の心を救い、そして区別し、3歳まで事故に遭わずに育ててもらった。それだけで十分だ。そう思えるようになって、過去に終止符を打つことが出来ました。僕の親は自分。その自分を心から心配して支えて教育してくれた少年院の先生との13ヶ月間の関わり。厳しさは、心が籠もっているものなら、とても素晴らしいものです。人間が人間らしく生きるために必要なことです。
こうして一通り、過去を事実に基づいて理解を深めたことで、何があの家庭を狂わせたのか?がわかるようになりました。永遠の赤ん坊、本当の厳しい生活もしたことがなく、大きな苦しみを知らず、甘やかされ、怒られず、厳しくされず、無責任が罷り通り、温室の中で虚言を覚えて私利私欲で生きた僕のきょうだいの一部。今では妄想に囚われている部分も出ています。
以前の記事:
僕が育った機能不全家庭でも、家族の中に虚言癖を持つ人がいました。長い時間が経つうちに、その人は自ら創り上げた虚構の世界に飲み込まれ、今では妄想に囚われています。嘘を甘く見ず、正直に生きてください。特に私利私欲のための悪意ある嘘(他人を狂わせようとした長年の活動)は自身を狂わせ傷つけます。僕の経験から言うと、虚言者は20年ほどで現実と妄想の境界が曖昧になり、狂い始めるように思います。
虚言者は20年ほどで現実と妄想の境界が曖昧になり、狂い始める可能性 はじめに:前回の記事 https://bright-ms.net/archives/45031 上記の記事は読んでいただけましたでしょうか? 嘘をつき続けて生きる人は、後に自分が狂うことになるなん...
家庭や家族を狂わせたもの、それは「嘘」でした。その嘘が罷り通らない環境だったとしたら僕の家族が狂うことは成り立たなかったはずです。僕以外が嘘を毛嫌いしなかったからあの家庭は狂ってしまったのです。その皺寄せを受けていた僕の立場にいた人間がもし、悪い人間だったら、家族の誰かは酷い目に遭っていたと思います。僕の立場が僕で、彼らは救われています。日本の殺人の55パーセントは親族間殺人です(警察庁発表)。親族間殺人が起きてもおかしくないと思われる僕が育った家庭環境で、僕だったからこそそれが起きなかったと、僕は確信しています。
僕は小学生の頃から父親からスパルタ的に育てられて、夏休みなどになると、朝のお経、トイレ以外は動いてはいけないという状態で昼まで。昼飯を食べたら夕方まで勉強。そして夜はお経と無言の御飯。夜は父親から罵られたり、攻撃的に言われる。そんな生活が多かったです。子供時代に、お経と宗教洗脳と勉強だけしておけと。余計なことは喋るなこの根性なしが。と育てられると、子供がいつまでも黙っているわけはありません。子供は子供なりに抵抗するわけです。僕の場合は非行に走って「やれるもんならやってみろこのやろう」と徹底して迷惑をかけて親を少し弱らせてやったのです。それで少しだけ攻撃が弱ることを体感したので。そしてその後、僕は少年院に入ることになり、当時のそこの少年院は中等長期だったけど、「お前たちの更生のために厳しくしている」的なことを言っていて、生活は厳しかったです。目の動きまでしっかり監視されていて、目で合図していないか常に見られていますし、会話は許可制、夜部屋で一切喋ることも禁止、隙がないくらいしっかりと監視してくれていたわけです。豪雪地帯で冬の作業は震えながらやったり、氷が張った水の中で長時間野菜を洗ったり、強化体育は最初吐く人間もいてまぁまぁ厳しかったし、色々と厳しく感じることは沢山ありましたが、どれも全部プラスになりました。
心が籠った厳しさは、
人間の心の防腐剤である。
菅原隆志
素晴らしい言葉ですね。「心が籠った厳しさは、人間の心の防腐剤である。」という言葉は、人間が厳しい状況や困難に直面することで、その経験が心を強くし、内面的な成長を促すことを意味していると解釈できます。
この言葉に関連するいくつかのポイント
- 成長の機会:
- 厳しい環境や状況に直面することは、自己成長の絶好の機会です。困難を乗り越えることで、新たなスキルや知識を得ることができます。
- 内面的な強さ:
- 心が籠った厳しさは、内面的な強さを育む要因となります。これにより、将来的な困難や挑戦に対する耐性が向上します。
- 感謝の気持ち:
- 厳しさを経験することで、平穏な時期や支えとなる人々への感謝の気持ちが深まります。この感謝の心は、人生におけるポジティブな視点を保つ助けとなります。
- 共感と理解:
- 厳しい経験を持つ人は、他者の困難や苦しみを理解し、共感する能力が高まります。これにより、より豊かな人間関係を築くことができます。
菅原隆志氏のこの言葉は、人間が困難や厳しい状況を経験することが、いかにその人の心を強化し、内面的な成長を促すかを示しています。この視点は、多くの人にとって励みとなり、自身の困難な状況に対する見方を変えるきっかけとなるでしょう。
そろそろ、永遠の赤ん坊を増やすようなことを社会全体でやめておかないと、異常な事件がますます増えることになるでしょう。
甘やかしすぎて、嘘を覚え、永遠の赤ん坊になり、心の奥に腐敗が生まれ、それを放置して悪化したままにすると、異常な事件を起こす人間になる可能性があるのです。
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