質問:どうして本に宗教名を書かないんですか?
Q:どうして本に宗教名を書かないんですか?
質問は「質問箱」から
回答:書く必要がないから
このご質問は、先日出版した下記の書籍についてのことだと思います(違ったら再度、具体的に質問を送信して下さい)。
僕が宗教名を書かないのは、「書く必要がないから」です。宗教名を挙げて否定する気もありませんし、悪だとして断罪する気もありません。「皆さん、あの宗教はこんなにも悪いことをしているんですよ!」と言いたいわけでもありません。昔は確かに恨んだことも憎んだこともあります。だけど僕はあれから更に成長して、書籍の中で下記のようにお伝えしています。
問題は自分にあるのです。人間ですから誰にでも悪い部分があります。宗教にも、宗教の信者にも勿論、悪い部分があります。それと同時に、良い部分もあります。とある宗教の信者は、僕らが子供だった頃に、引っ越しの準備で忙しく、親は先に引っ越して子供だけになったことがあり、それを知ったとある宗教の信者の人たちは数人で、おにぎりやおかずなどを作って持ってきてくれていました。良い人もたくさんいます。良い部分もたくさんあります。わざわざ宗教名を挙げて、あの組織は悪いんだよ! なんて書きたくないから書いていないだけです。そういうことが目的ではないのです。あの書籍の目的は、自分の力で自分の苦しみを解消出来る人が増えてほしいので、その為の情報提供です。
僕の名前は宗教のシステムがつけたもので、親がつけたものではありません。だから昔は名前を変えたいと強く思って変える方法を調べたこともあります。宗教というものを虫唾が走るくらい嫌いになったこともありました。だけど今は考え方も変わりました。そして皆、同じ人間です。僕らが知りようもないことが山ほどあります。
断罪や争いよりも和解、理解。それが癒しに繋がる。
僕の母は「親への恨みはでっち上げ」に書いたように、2020年に他界しました。
母は捨てられた子だったので、本当の親を知りません。なので、心を閉ざしていて、とても強い「自己無価値感」を抱いて生きてきた人でした。
親への恨みはでっち上げより
母親は、親から捨てられて、養子に出されて、そして宗教を心の拠り所として生きてきた人でした。母にとっての宗教は心の拠り所だったのです。死のうと思っていたこともあったそうですが、宗教を心の拠り所にして生き抜いていたのでしょう。その影響で、帰るところがない父も信仰するようになったのですが、そんな事情も知らなかった子供の頃の僕にとっては心が殺されるほどの支配だったのです。お互いに理解がないから対立することになったのですが、理解を深めてみれば、そこにはその人間の苦しみ、悲しみ、そして心の拠り所にしないといけないほどの理由があることがわかりました(こういった親への理解によって恨みも小さくなるから、親への恨みはでっち上げでは親への理解を促している)。そういうことがわかってきたわけですから、宗教名を挙げて断罪する必要なんてありません。1つの良い人生勉強だった、そういう終わり方で良いのです。
大切なことは外ではなく、自分を心の拠り所にすることです。それが出来るようになるまでの支えとして、一部の宗教は世の中の一部の人たちにとって必要なものだと思います。どうしても自分を心の拠り所に出来ない人たちもいます。僕の母親がそうでした。親から捨てられた子の深い悲しみは、とても強い自己無価値感となっていました。そんな人たちの受け皿となっている側面もあるのが一部の宗教です。それさえも奪って壊してしまったら、生きられない人たちもいるわけです。今現在、多くの人たちが宗教を叩いていますが、無理解で叩き続けると、最後の最後には宗教がカルト化する可能性があるから、やめたほうが良いです。信者にも信者の苦しみや悲しみがあります。そこを理解していかないと大変なことになる場合もあります。叩くのではなく、理解が必要です。それに関する2つの格言を最後にお読み下さい。
まず理解に徹する。これが正しい原則であることは、人生のあらゆる場面で証明されている。
「7つの習慣」スティーブン・R・コヴィー博士(アメリカ合衆国出身の経営コンサルタント、作家)
非難は愚者でもできる、理解は賢者しかできない。
デール・カーネギー(作家・教師)
僕はずっと前から「理解」=「癒し」だとお伝えしてきました。これは王道ですから、今後もずっと変わらないものです。下記記事をお読み下さい。
女性情報誌「Poco’ce(ポコチェ)」の11月号(10月25発行 表紙:波瑠さん)巻頭特集「癒し」にて、幸せの種「気づき」が紹介されました!
深い部分の「心の癒し」は「自己理解(理で未処理・未消化の感情を解く)」ということ。
このように書きました。これは他人に対しても同じことなのです。他人を超えて国家間でさえ通用することなのです。故・安倍元総理は外交の安倍と言われて、他への理解も優れていたのだと思います。だから理解に関する「和解」の言葉を大切にされていたのではないかと思います。
故・安倍元総理も理解の大切さを話してくれています。(こちら)話す言葉も、行動も、全て、人々の幸せを願うこととして一貫性がある素晴らしい政治家だったと思います。
深い理解で相手を大切にして尊重出来るようになってくると争う必要がなくなるのです。理解は世界平和に繋がるほど重要なことですから、まずは1人1人が、自己理解を深めて、他者理解を深めていくことが重要です。そしてその理解を、次は、抽象度を上げての理解へとランクアップさせていくことが重要なのです。つまり組織への理解、政府や国家への理解、それを超えて地球全体への理解。それは全て理解なんて出来るわけないけど、今よりもほんの少しでも理解を深めることは出来ます。理解を深めることで癒しも増えるのです。その基本が自己理解なのです。自分を理解出来ない者に他人を理解することなど出来ないのです。僕も自己理解を深めたら親への理解も深まりました。そして癒しが起こり恨みが消えました。
僕の目的は何かの断罪ではなく、文章を通して、理解の大切さを伝えて、理解を促すことです。だからわざわざ宗教名を書いてあれは悪いものだ!と書きたくないのです。